夜にひしぐは神おろし

お芝居とか映画とか好きなものの話を諸々。自分のためのささやかな記録。

『唐版 風の又三郎』シアターコクーン

ちょっと前に『唐版 風の又三郎』を観てきました。自分の中でまだ全然整理が付いていないんですけど、忘れてしまう前に観劇記録だけは残しておきたいなぁと思い、何が書き残せるのかノープランのまま書きはじめた次第です。

ネタバレありの観劇記録になるかもしれないので、ネタばれを避けたい方はお気を付けください。

『唐版 風の又三郎』って、ざっくりこんなお芝居

このお芝居を紹介するときに、どう紹介したらいいのかなって、ちょっと迷ったんですよね。あらすじを引用するべきなのか、それとも成り立ちを紹介するべきなのか。つまり、自分がこのお芝居を観るときに、成り立ちや背景というものを自然と意識して観ているということだと思うんです。

どんなあらすじか、の引用はこんな感じ。

東京の下町で二人の男女が出会う。精神病院から逃げてきた青年「織部」と宇都宮から流れてきたホステスの「エリカ」。

二人はこの物語の中では恋人同士ですらなく、ただ、『風の又三郎』のイメージを介して結びつくもろい関係。

(中略)

ガラスのような精神を抱え、傷つきながらもひたすらに、自らの「風」である女を守ろうとする青年と、いまわしい血の記憶に翻弄される女との、恋よりも切ないものがたり。

唐版 風の又三郎 | Bunkamura

一方、どんな成り立ちか、を引用するとこんな感じ。

アングラ演劇の雄・唐 十郎の戯曲『唐版 風の又三郎』は、1974年に唐率いる劇団状況劇場が初演。現代劇の公演をテントで行うという新たな発想で60年代から演劇界にニューウェーブを起こしていた唐による、宮沢賢治の童話『風の又三郎』をモチーフにしながら想像の翼を奔放に広げた世界がスペクタクルに展開するこの舞台は、当時観客の圧倒的な熱狂の元に迎えられた。

唐版 風の又三郎 | Bunkamura

自分の感想を整理していて気が付いたのですが、自分の中でパラレルにいろんなチャンネルが走っていたみたいで。最初は舞台の演出とか散りばめられたものたちを受け取りきれずに混乱しているのかなって思ってたんですけど、どうやら同時にたくさんのチャンネルが走ってる状態になっていたせいで、情報過多に陥っていたみたい。

『唐版 風の又三郎』の舞台には、実に様々なものが乗っかっている。いったい自分は何を感じて何に圧倒されたのかなぁというのを紐解いておきたい。

舞台の手触りと背景からのぼる匂い

2月はずっと忙しくしていたこともあって、前情報を入れる暇もなく、まっさらな状態で観に行った。それが良い方向に転んで、実にピュアな気持ちで舞台を見つめることができた。

舞台を観ていたとき、ピュアな目で観ていたものと無意識下で感じ取っていたものの両方があったんだと思う。すぐそこにある手触りみたいなもの。文字通り手を伸ばせば触れられるような、目で見てわかる質感があった。それから、目には見えない匂いみたいなもの。それは本当の匂いとは違うのだけれど、空気のように、こちらからは触れられなくて向こうから一方的に撫でに来るものとも言えそうな何か。私はそれを匂いと呼んだ。

大きく分けるとそのふたつが私の五感に(もしかしたら第六感にまで)わっと押し寄せてきたものたちなんだと思う。すごくふんわりした言い方だけどね。

役者さんたちの輪郭

手触りを構成しているもののひとつは、間違いなく肉体的な意味での役者さんの存在なんだけれど、皆さんすごく「この舞台のためにここに居る」感がすごくて、座組の強さみたいなものを感じた。

その中でも、窪田正孝くんの存在感はずば抜けていた。あんまり意識しないで(つまり油断して)いたこともあって、窪田くんの板の上での在り方にめちゃくちゃ衝撃を受けてしまってな。衝撃すぎて全然受け身が取れず、したたかに後頭部を打った。だいぶ打ちどころが悪かったと思う。

観劇当日に残してたつぶやきが打ちどころの悪さをめちゃくちゃに表しているんだけど、

「にこにこしながらイルカショーを観に行ったはずが、豪速球で消えない魔球がこっちに飛んできた」

「あんなダンプカーみたいな豪速球が来ると思わずイルカショーの気持ちで座ってたから、激しい衝撃波と共にトヨタの衝突実験よりも高く脳みそが飛んでいって遠くの空へ消えた」

と、そんな具合で口から泡を吹いていた。

紅テントの気配

そんな直接的な交通事故に圧倒されつつ、無意識下ではずっと紅テントの気配(それがまさに匂いみたいなものだと思うんだけど)を感じていた。

私は唐組のテントを観たことがないのだけれど、むかーし花園神社が生活圏内にあった時期があって、テントの賑わいとか独特の雰囲気とかを感じられる状態にあったんだよね。なので、なんとなくその匂いを知っている。なんとなーくだけど。

で、その紅テントの匂いがシアターコクーン内でしてる、という認知的不協和が起こっていて。本当に無意識だったんだと思うけど、その不協和が脳内にあることでめちゃくちゃに負荷がかかっていたっぽい。つまり混乱と感じていたのはそこにも原因があったんだろうな。

でも、その認知的不協和は悪い種類のものではなくて、なんとも言えず耽美な気分に似ているものなのかも、という感じがした。こんな場所でこんなものを覗いていていいのかな…? みたいな気持ち、かな。

身体めいっぱいが受信機だった

他にもいろいろ要素はあるんだけど、細かいことは置いといて、自分でも知らないうちに身体めいっぱい使って舞台を浴びている状態になってたんだなぁ、と再認識した。だからどうってわけでもないんだけど、自分がどんなふうに舞台を観ていたのか考えるって、私にとってはおもしろいことなのです。

理屈で観るというタイプの舞台ではない『唐版 風の又三郎』、しかし情報量はめちゃくちゃ多い! 舞台から発せられる情報量を受け止めきるのにはなかなかに胆力がいるな、という感じがある。

皮膚感覚まで使える舞台って、きっといい舞台、いいお芝居なんだと思う。

化かされるためにそこにいた

表現方法としてもすごくおもしろいものがいっぱいあったと思うし、舞台のあちこちに散りばめられているメタファーや暗喩を反芻して噛み砕いていきたいなぁという気持ちがある。どんな舞台でも、それをするのが大好きなので。

けれど同じくらい、『唐版 風の又三郎』をわからないままにしておきたいという気持ちがある。狐に化かされたのかな? くらいの気持ちでこの出来事を受け止めたい。私はきっと化かされるためにそこにいたのだ。花園神社のテントの匂いと同じ夜に、化かされたかったのだ。

そんなふうに楽しむ舞台があってもいいと思うし、そんなふうに思える舞台に出会えてよかったな。これからも、まだまだいろんな舞台と出会っていけるんだろうな。人生っていいものだな。