夜にひしぐは神おろし

お芝居とか映画とか好きなものの話を諸々。自分のためのささやかな記録。

「これから起こること」を目撃するために多ステする

私はもともと同じ映画を何度も何度も観るタイプ。演劇にハマるようになってからも、やっぱり何度も観たいと思うことが多い。いわゆる多ステというやつなんだけど、これはもう癖というほかにはない。

とはいえ、チケットが希少化するような人気公演なら遠慮するし(観たい人にたくさん行き渡るほうがいいからね)、そもそも取れないことも多い。だけど、チケットにそれなりの余裕がありそうな公演は、何度も観たい。

(もちろん、気に入った公演は、という意味ですけどね。「自分が観たいから!」以外の理由で多ステすることは、自分の場合はほぼないです。誰かへのお付き合いの意味合いも貢ぐ意味合いもない。)

できればひとつの公演につき3回くらいは観たいなーと、常々思っている。3回というのはそれなりの個人的な根拠があって、私の演劇の楽しみ方は3フェーズくらいあるからだ。

私の演劇の楽しみ方3フェーズ

私の演劇の楽しみ方3フェーズをざっくり記述すると、「浴びろ感じろ」「見逃すな焼き付けろ」「考えろ味わえ」といった具合になる。

1回しか観られないとわかっているときは、浴びて感じて焼き付けられるよう全力で観る。2回ほど観られるときは、全力で浴びて感じる回と全力で焼き付ける回に分けたりする。座席運にも左右されるので、感じる回と焼き付ける回が逆になったりもする。

3つめの「考えろ味わえ」については、劇場で公演を観ながらそれができるくらいたっぷり通えたら幸せだが、なかなかそうもいかないので、観劇後に反芻することによって満たされる。でもやっぱり観ながら「考えろ味わえ」のフェーズを深めたり没入できたりする時間が持てるときは、本当にうれしい。

多ステする中で3フェーズをくるくる繰り返しながら、演劇という贅沢を味わい尽くしたい。でもそれは映画を何度も観るのとは全く性質の違う行為で、そこがおもしろい。

「これから起こること」と「起こってしまったこと」

演劇を多ステしたい欲求は、あとでDVDを観ればいいということとはちょっと違う。劇中で目撃するものと、映像の中で目撃するものは、種類の違うものだから。

演劇のいいところは、なんといってもその場の生の熱量を眼の前でリアルタイムに浴びられるところ。別の言い方をすると、「これから起こること」に対して、演じる側と観る側の共犯性が存在するってことじゃないかな。

共犯性がキワキワに高まっている演劇は、即時性のある情動に溢れている。それは演じる者から次々に生まれてくる。観る側にとってもスリリングで、その場にいるだけで興奮することができる。共犯性が高い舞台には魅力を感じるし、それを味わいに劇場に足を運ぶ。

一方、映画(残された映像、と言ってもいい)のいいところは、共犯性が皆無であるところ。何度観ても切り取られた空気や文脈が同じだから、物語の解釈が変わらない。観る側は誰かが編んだ「起こってしまったこと」を観る。場面を切り取ることも差し込むこともできるし、それを上手にやることが期待されている。

「起こってしまったこと」と「これから起こること」は常に別物で、でもどちらも浴びて感じて、焼き付けて考えて、味わうことができるものだ。映画も演劇も、なぜその一瞬がそこにあるのか、という理由がそれぞれにある。演劇を多ステしたいという場合には、都度の共犯性を共有したいという欲求だから、映像化されて共犯性が失われた演劇を観るのでは意味がない。

もちろん、記録された「起こってしまったこと」も何度だって観たいんだよ。「これから起こること」と「起こってしまったこと」、どっちも何度も観たいの。どっちも観られるってことは、豊かで幸せなことだね。