夜にひしぐは神おろし

お芝居とか映画とか好きなものの話を諸々。自分のためのささやかな記録。

『フリムンシスターズ』シアターコクーン、初日… の感想を書く前に自分の感情を整理する話

フリムンシスターズ初日、行ってきました。
いつもみたいにスタートダッシュで書きたい、感想を。

でも今の私、お芝居の感想の前に、松尾スズキ氏や阿部サダヲ氏をはじめとする関係者へのお気持ちを整理する必要がある。いつもみたいにピュアにお芝居に感情移入してぐしゃぐしゃになるのとは違う、体験したことのないぐしゃぐしゃに襲われていたから。

このぐしゃぐしゃな気持ちについて、きっと演じる側はこんなふうに思われたくないだろうな、という後ろめたさを抱いている。ただただ笑って観てほしいだろう、無邪気に楽しんでほしいだろう、こんなぐしゃぐしゃなんて抱いてほしくないし語ってほしくないだろう。つまり、演者の願いを曇らせる気持ちを、私は抱いているのだろう。しんどい。

でも私が1ファンとして感じている今の気持ちは私だけのものだから、私だけの観劇記録として書き留めておくくらいは、どうか許してほしい。お芝居の中身でなく、そのまわりで起こったあれこれに対する気持ちを整理しないと前に進めない。今のこの状況の中で、痛いほど味わった心の揺れを。

これは私個人のぐしゃぐしゃを整理するためだけのエントリ。なんだそれ、と思った人はすぐ引き返してください。あなたの求めているものとは違うものなので。

まともな感想は別のエントリで書くね。むしろそっちを早く書きたいから、だから今これを急いで書いてる。うまくまとめられないかもしれないけど、それでも書く。ぐしゃぐしゃの中身についてもいろいろありすぎるんだけど、ここでは阿部サダヲ氏と松尾スズキ氏に対する感情だけに絞って書くことにします。

舞台俳優・阿部サダヲという存在がぐらつくのを初めて観てしまった日

阿部サダヲを観てこんなにぐしゃぐしゃしたのははじめてだ。

全体を通して見れば、前日ゲネが初通しという状況で、あれだけのお芝居をやり通せる阿部サダヲはすごいとしか言いようがない。二幕以降の演技の伸びも凄まじかったし、元気だったという感想ひとことで済むのかもしれない。

けど、私は今まで阿部サダヲという俳優がぐらついたのを観たことがない。体力おばけかな? ってくらい謎に安定していて、いつだって怖いくらいの仕上がりを見せてくれると思っていた。

一幕の秋山さんとサダヲちゃんのシーン、一見普通だけど秋山さんが汲み取ってる感じだなとか、カバーしたりしてるなって想像しちゃう部分があって、決して完全な呼吸ではない感じがしていた。そこはもう、さすが秋山さん、さすが紀伊國屋演劇賞受賞女優、ってなるんだけど。

サダヲちゃんの発声一音目とか、歌の歌い出しとか、今まで聴いたことないくらい弱々しくて、聴いた瞬間「あれっ…」ってなった。何よりその後にサダヲちゃん本人の動揺が伝わってくるような空気を出していて、そのことで私の胸がヒュンッとなった。

何本目かの歌のパートからいつもの感じが戻ってきて、二幕に入ったらエンジンが滑らかに回りはじめた感じもして、それを観てたら胸がいっぱいになった。

一幕どんな気持ちで板の上に立っていたのかと思うと、私なんて中の人たちになんの関係もない人間なのに、想像だけで怖くなってしまって震えが来ちゃった。幕開けるの、楽しみだったろうけどきっと今までになく怖かったんだろうなっていうのを、二幕に伸びていったお芝居を通して感じてしまったんだよ。

だからね、二幕途中でいつもの感じを取り戻して、センターでビカビカにオーラ出しながら歌ってたサダヲちゃんを観てたら、なんだか涙が止まらなかった。なんでこの人、私たちを笑わせるためにこんなにややこしいものを背負ってるんだろうって。

そうだよ、そんなふうに見られたくないと思うんだよ、役者さんは。余計なことを見ずに感じずに、クッソおもしろいゲラゲラゲラゲラ!ってなってスッキリして帰ってほしいんじゃん。わかってる。だから後ろめたい。

こんな後ろめたい愛しさを板の上に立つ人に注ぐことなんて、なかなかないよ。愛しさとしんどさでぐしゃぐしゃになってる。なんなんだよって思う。だから私はここでぐしゃぐしゃを全部整理して、次からは最高にハッピーな気分で無責任にゲラゲラ笑いに行く。

今夜あんなふうにまっすぐ板の上に立ってくれた阿部サダヲちゃんの姿を、私はずっと心の奥にしまっておくよ。

松尾スズキの新作のすばらしさを通して見てしまった別のしんどさ

松尾スズキさんの戯曲がどえらい好きだ。演出家としても役者としても脚本家としても好きだけど、私は松尾スズキの持つ文学性を愛している。

比較の話になっちゃうけど、クドカンの戯曲について語るときは「うまい」で形容することが多いんだ。クドカンのホンはクドカン独特の技巧の先に、本人自身から突き抜けた謎の何かが生まれてる感じがして、別に本人はこれを伝えたかったわけじゃないんだろうけど、こっちはそれを受け取ってるわ、ってなってるような気がして、そこがおもしろい。

対して松尾さんのは「伝わる」って言いたくなることが多くて。真正面を避けてぬるぬる書くなぁって思ってるんですよ、個人的には、松尾さんは。でもぬるぬる逃げているようでいて、ぬるぬるの中に伝えたいことを全部書いてる感じがする。そこにあるものを勝手に読み取ったり受け取ったりするのではなく、「松尾さんの伝えたいこと、たぶん私に伝わってると思う」って松尾さんに呼びかけたくなるような、そんな書かれ方だなっていつも感じてる。

今回の新作「フリムンシスターズ」は、松尾さんのホンが好きな人たちが観たら、松尾さんにしてはストレートだなって思うところ、あると思う。意外とぬるぬるしてない。真正面から正攻法で来てる感じがする。ああ、芸術監督就任以来、松尾さんが出したかった答えってこれなんだなって勝手に思ってしまう。お話の筋も、ミュージカルとしての幅も、全部が全部今の松尾さんの答えなんだなって。

でもきっと、先日の騒動(そのことについてここで詳しく書く必要はないだろうから割愛する)のフィルターを通したら、その答えはぐっと矮小化されて捉えられるだろうと思う。そのことが苦しくて。考えるだに悔しくて。二幕の終わりにラストの歌を聴きながら、こんな答えを用意して私たちを待っててくれた人が、この数週間どんな日々を過ごしてきたろうかと想像せずにはいられなくなって、しんどくてしんどくてぐしゃぐしゃのぐしゃぐしゃになってしまった。目の前の答えがすばらしければすばらしいだけ、底なしに深まるしんどさもあるのだなと知った。

私はこの答えをじっと待ってきた側の人間なので、すごく伝わってしまうしわかってしまう。わかる準備ができている相手に何かを伝えるのって、敷居が低いだろう。でも、世の中に出てしまえば、そうじゃないことのほうが多い。すべての表現者はそれを乗り越えないとこの先の時代を乗り越えていけないのだろう。だから答えに「わかり」を感じる側の1ファンとして、そこはシビアに見ていく必要があるし、その部分に対する態度を間違えてはいけないと強く思う。「わかりかた」を間違えたとき、ファンは推しをスポイルする。

とにかくフリムンシスターズはすばらしいお芝居だった。だけどお芝居の中ではなくお芝居の外側にいろんなことがありすぎて、私の中に要らないぐしゃぐしゃがたくさん溜まってしまった。だからこそ、このお芝居が幸せな形でたくさんの人に伝わりますようにって、願わずにいられない。

お芝居に対する良し悪しとか好き嫌いについては、それはほら、個々人の感性で処理すればいい話だから。みんながみんな好きになる必要もないし、疑問に思う人がいるのも自然なことで当たり前のことだ。ひとりひとり違った感性と違った価値観を持っているのだから。自分の感性を信じるためにも、このお芝居をまっすぐに受け取ってまっすぐに感じられたらいいなぁと強く強く願う。

ぐしゃぐしゃを「ちょっとだけ残して」また観に行きます

こんなぐしゃぐしゃ、演じる側にとってありがたくない感情だって知ってる。
だけど「ちょっとだけ残して」また観に行く。そうしないときっと忘れてしまうから。

次も開くかな。幕が開くかな。
信じるしかないね。また明日。