夜にひしぐは神おろし

お芝居とか映画とか好きなものの話を諸々。自分のためのささやかな記録。

髑髏城の七人 Season月 <上弦の月> 私的卒業論文『月髑髏・上弦とはなんだったのか 〜観劇者の解釈と情動の可視化』

髑髏城の七人 Season月 <上弦の月>のゲキシネが絶賛上映中ですね。8/16に名古屋で公開がはじまり、9月には順次全国で展開されちゃいますね。胸がいっぱいですね。

少しでも参考になればと、上弦ゲキシネの編集に感謝する7つの理由をまとめてみましたが、まったくもってまとめ足りません。だって感謝しかないのだもの。

まだ『髑髏城の七人』そのものを観ていない人には、なんのネタバレもなくまっさらな気持ちで観てほしい。もし他のシーズンを履修済みなのであれば、その違いを味わいながら観てほしい。

そしてもし上弦をすでに観ていて、
上弦という深い沼に片脚を踏み入れてしまったならば!!
ちょっとでも上弦の味のする何かをおくちに入れたいならば!!

ちょっと私の卒論でも読んでってくださいな。お役に立てるかはわかりませんけれども、かつて、いや現在進行系で上弦に狂わされた人間の営みが、あるんですここには。ゆっくりしていきなよ。

卒論とはなんなのか

人生を狂わされた人間が、そのコンテンツを見送るときに書くやたら重たい文章、それが卒論。ステアラを回り終えた上弦に対しても、たくさんの人が卒論を書きました。かく言う私もそのひとりです。

卒論卒論と言いますが、思い余って本当に論文を書きました。多次元尺度構成法と共起ネットワークというものを使って観劇メモを解析するというスタイルの論文なんですけど、あくまで論文のパロディなので本物の論文ではありません。

自分で書いておきながら、いまだに上弦の味がするガムとして、定期的に読み返しては噛み締め続けています。WOWOWならびにゲキシネとして全国に上弦が解き放たれた今、このガムを噛んでうれしい気持ちになる人がひとりでもいるかもしれないならば、公開しちゃえ。というわけで公開します。

誰にでもおいしいガムではないかもしれないので、求める味じゃなければすぐ吐き出してください。そのあたり、誰にでも愛される味だとは思っておりませんので、どうぞご自身の判断でお願いします。

PDFだと読みづらいと思うので、謝辞の部分だけ抜き出しておこうと思います。なんなら論文の本体は謝辞なので。解析部分とか読まなくていいので。

ここから先はネタバレに相当する記述も多分に含んでおりますので、ネタバレを踏みたくない方はお引き返しください。

卒論 7章 謝辞 より引用

以下、PDFからの引用です。引用しつつ、自分の中で特に情緒がおかしくなる部分を強調表示しています。強調表示をするにあたり、泣きながら読み返しました。燃費の良い自給自足。

7.1 上弦聖子太夫

 謝辞を書くぞという覚悟を決めたとき、気が付いたら自然と太夫のことから書きはじまっていた。髑髏城について語るとき、今まで太夫のことが先に立つことはなかった。しかし、月髑髏・上弦の卒論謝辞を書く段になり、上弦聖子太夫は誰よりも大きい存在感で自分の胸の中にあるのだと思い知らされた。

 上弦聖子太夫は、全髑髏城の中でもひときわ大きな重責を担って生きていたように見えた。歴代髑髏城の太夫は娘たちの前に立って引っ張っていくイメージだったのに対し、上弦聖子太夫はまるっと大きく抱え込むように、やわらかく包み込むように、娘たちを注意深くバックアップするようにして守ってきたのではないかなと感じる。

 肩寄せ合って一緒に生きているように見えて、その実、上弦聖子太夫はひとりだけ輪の外側にいる。例外があるとしたら、おでん。おでんは上弦聖子太夫と無界ガールズとの間に立ち、数少ない大人として役割分担しながら、太夫と一緒に歩んできたのだろう。つまり「保護者として娘たちを守ってきた女性」というのが、私の中の上弦聖子太夫イメージだ。いつか娘たちが自分のところから巣立つ日が来ればいい。娘たちにとっての大切な誰かに娘たち全員を手渡して、はじめて務めを終えられる。そんなふうに、娘たちを預かっている気持ちでいたんじゃないかな。

 そもそも太夫は、捨天蘭とは違う角度から「この世の地獄」を見てきた人だ。捨之介が捨てられないものの重みを、誰よりも深く理解できる唯一の人物でもある。捨てられないものの重みを知っているだけでなく、捨てたうえで新しく拾ったり抱えたりすることを、あえて選んできた人なのだ。新しく拾ったもののひとつである蘭兵衛が「この世の地獄」を作る側にいたであろうことも、どこかで薄々勘付いていたはずだ。それでも蘭兵衛として生まれ変わったように見えたその男を、まるっと包み込んで支えてきた。そんな上弦聖子太夫の生き様は潔く、尊い。

 自分が守ってきたはずの娘たちが、逆に自分を守って目の前で死んでゆくのを、上弦聖子太夫はどんな気持ちで見つめたのだろう。きっと自分が死ぬよりつらかったはずだ。身を引き裂かれる思いで見つめたはずだ。無界襲撃の終盤に兵庫が割って入らなければ、蘭丸にそのまま殺されることを選んでいたであろうことも、想像に難くない。立ち上がれないくらいに折れた心で、蘭兵衛に殺されにいこうとさえしたのだと思う。

けれど、同じように仲間の死に打ちのめされている兵庫を前に、上弦聖子太夫は立ち上がる。震える膝に何度も拳を打ち込み、自分ひとりの力で立ち上がるのだ。そして自分を生かしてくれた若者たちの生と死すべてに報いるために、その脚で走り出す。あの一連のシーンを思い返すだけで、冗談でしょってほどに泣ける。

 そして娘たちと同じくらい愛したはずの蘭兵衛を、新しく拾ったものとして慈しんできたはずの蘭兵衛を、娘たちの仇として殺すことになる。しかも蘭兵衛自身に請われて。よくよく考えると意味がわからないよね。太夫が撃たなくても蘭兵衛のあの傷ではどのみち死んだであろうに、上弦聖子太夫は蘭兵衛に精いっぱいのとどめを刺す。すべてを背負って、さらにまた背負う覚悟で。蘭兵衛はずるい。だって、蘭兵衛が過去を洗い流せなかったことで、太夫もそれを流せなくなるんだよ。本当は蘭兵衛の手を洗い流してあげたかった太夫なのに、最も望まない形で蘭兵衛の因果を消さなくてはならなかった。

 残されたものはつらい。それでも彼女は背負う。残された者の重みをこれでもかと背負わされるのが上弦聖子太夫。彼女がただ生きているだけで、一個人を超越し、菩薩のような存在になり得る。彼女は他化自在天のある欲界よりも上位の存在だと言っていい。捨之介は天は高いと言うけれど、上弦聖子太夫は天にも届かぬ天魔王などよりもずっとずっと高いところにいるのだ。だけど本当は、そんなところにいなくていい。そんなわけのわからないところにいないで、地に足を着けて、あれがしたい、これがほしいってわがままを言っていい。だからこそ、最後に兵庫が言ってくれる「一緒に生きる」「前から受け止める」の意味がずしんと来る。救われるというのは、ああいうことを言うのだと感じる。人は地面に足が着いてるうちに幸せになるべきなのだ。

 上弦聖子太夫は、城から抜け出す際に、蘭兵衛の刀を持ってゆく。だけど太夫は、最後までその刀で人を斬らない。兵庫と仁平と背中を預けあいながら、誰も斬らずに自分が生きるためだけに刀を使っている。同じ刀でも、殺すために使うこともできれば生きるために使うこともできる。人も同じように、何度でもやり直せるはずなんだって、太夫は蘭兵衛に言い続けてきたんだと思う。同じように思ってくれる兵庫と仁平がそばにいてくれてよかったね。みんなで城を抜け出せてよかったね。

 最後、兵庫と一緒に去るシーン、そのときはもう、蘭兵衛の刀は持っていないんだよね。要らないものはお城に置いてきたのだろう。背負っていかなくちゃいけないものはたくさんあるけれど、要らないものはちゃんと置いてきた。そんなものは要らないのだと言える場所まで来られたのは、蘭兵衛の刀があったからなのだと、私はそう思ってあげたい。昔の縁はどんな縁でも今の自分を作るために必要な縁だった。でも、昔大事にしていたものでも、未来に持っていけないものは三途の河に捨之介していいんだよね。今大事なものを守るために、捨てなくちゃいけないのだ。

 上弦聖子太夫は最後まで、無界のみんなの保護者だった。あたたかくて、気丈で、自分の気持ちを殺しながらも周りにそれを悟らせない、そんな上弦聖子太夫が大好きだった。みんなの中心に立つのではなく寄り添う在りかたを選んでいるように見えたのがすごく好きだった。幕は下りてしまったから、それまでの役割なんて三途の河に捨之介して、物語の外側で誰よりも誰よりも誰よりも幸せになってほしい。ありがとうございました。本当にありがとうございました。

7.2 上弦三浦蘭兵衛

 とにかく上弦三浦蘭兵衛は、最初から最後まで腹の立つ男だった。いや、これは悪い意味ではなく、蘭兵衛というキャラクターを三浦翔平くんという役者が120%表現した結果だと思っているので、むしろ褒めている。これは謝辞なのである。蘭兵衛に腹が立てば立つほど、上弦三浦蘭兵衛が気になってしまう。好きになってしまう。夢中になってしまう。ままならなさに心を痛めることしかできなくなる。そして腹が立つほど顔がいい。

 「顔がいい」というのを、オタクの符牒的な意味でありがちに捉えてもらっては具合が悪い。上弦三浦蘭兵衛の顔のよさを舐めちゃいけない。上弦三浦蘭兵衛というインターフェイス上で、再現性の極めて高い「顔がいい」という現象が起こっていること、それは事件なのだ。上弦三浦蘭兵衛を追うということは、「顔がいい」という現象の本当の意味を理解する瞬間に都度都度立ち会うということだし、ジャンルで言えば量子力学に近い。上弦三浦蘭兵衛は量子力学的な事件だったんだと思う。

 なんかもう、唐突にみうらんについてこれ以上書きたくなくなってきた。だってさぁ、上弦三浦蘭兵衛ってめちゃくちゃ特筆すべきことがありすぎてさ、すべてを書き切れる気がしなくない? いや、他のキャラもそうなんだけど、でもみうらんは…… いや、頑張る。書く。まだ「顔がいい」しか言ってないから。

 インターフェイスではなく人物像に目を向けると、蘭兵衛は髑髏城キャラの中で、ただひとりだけ力技で呪縛から解放される人物なのだと解釈している。殿に愛されるだけ愛され、天魔王に用意された花道を(偽物の花道だとしても)堂々と歩き、そのど真ん中で小姓としての本懐を遂げ、ついには極楽太夫に引導を渡してもらう。こんな至れり尽くせりに舗装されたイージーウェイを爆走するだけの男、どうしてこの世の中に存在するんですか? 呪いなんですか? 祝福なんですか?

 特に上弦に限った蘭兵衛の人物像として、どうしても言っておきたいことは、その次男性である。今までの歴代蘭兵衛は、よくも悪くもどうしても長男的に見えていた。捨天蘭の関係性を描くために意図的に長男設定になってたシーズンもあるくらいだし。あいつ本当は三男なのに。次男だし三男だし。ややこしい。

 でも、上弦三浦蘭兵衛は、最初から次男に見えたんだよね。家督は継がなくていいし、暴れ馬みたいな上の子見て育ってるからとにかく要領いいし、小姓に出された先では信長というファビュラス殿に恵まれるし、余計なこと考えずに殿にだけ没頭してればラブアンドピースだし、いいな次男って! 戦乱の世なのにラブアンドピースってどういうことだよ、とは思いました。雰囲気です。

 かと思えば、肝心なところで歯切れが悪いし、世話になった恩も仇で返すタイプだし、どっか誘い受けみたいなとこあるし、なんかもう、なんかもうなんなんだよおまえ!! めんどくさいかよ!!

 ちなみに私の中では「上質のナチュラルボーンダメ男は次男に限る」という、お外では言えない偏見があるんですけど、上弦三浦蘭兵衛は完全にそのタイプ。ダメって言うのは、能力的に劣るとかそういう意味ではないのだ。むしろナチュラルボーンで要領がよすぎて、気がつくと他人がイージーウェイを舗装してくれちゃってるというオートマチックな人生を送るタイプ。

 持って生まれた子特有の無頓着さ、残酷さ、圧倒的な次男性。それはきっと、天魔王にとって焦がれながら手に入れられなかったものなのではないだろうか。上弦三浦蘭兵衛のそんなところを殿は愛した。みうらんは持って生まれた子だからこそ、いろいろなことがわからないままで生きてきたんじゃないかな。太夫の気持ちだって、きっと本当はわかっちゃいなかった。だから「洗えば落ちる」って両手を握られて諭されたときも、なんだかんだの生返事なのだ。

 もしこういうタイプとうっかり交際などしはじめちゃったら、ついつい自らATMになってしまいがち。ほら、天魔王だってめっちゃお着替え用意してあげてたでしょ。あれだよ、あれ。お願いしなくても用意されてんだよ、そういうものたちが。万事そういう感じ。なんの話だっけ。そうそう、とにかく次男性には気をつけろ。どんなオタクの沼より後腐れがある沼だかんね。

 ……でもねぇ、要領がいいくせに、不器用な男なんですよ、上弦三浦蘭兵衛は。ピュアっていうか、一途っていうか、絶望的に育ちがいいんだなぁ。さすが森家の次男(三男)。そのせいか、敷いてもらったイージー舗道はなんだかんだ言いつつ最後まで走らないといけないと思い込んでるんですよ。いつだって降りられたのに。いつだって自分の意思でそのイージーハイウェイを降りて、国道沿いのファミレスで捨天と待ち合わせてドリンクバーでジュースミックス作ってウェイできたはずなんですよ。でもその選択肢ははじめから上弦三浦蘭兵衛の中にはない。ここが終点やでって言ってくれるのは、ファビュラス殿以外にいないから。殿の背中を追いかけるしかできない男だから。だめ、そっちに行っちゃいけないの。そっちに行ったらいけない、そっちにドリンクバーはないのみうらん!!!

 外道のくせに、あいつ外道なのに、哀しみをはらんだ切ない人物に見えて同情を誘われてしまうのは、上弦三浦蘭兵衛自身がそんな不器用な自分をどこかで理解してしまっているからなんだと思う。それはきっと無界での月日が自分を客観視させたからなんじゃないかな。とはいえ、それもうっすらとした自己認知でしかなくて、やっぱり過去に引き戻されてしまうんだけど。

 ところで、花鳥風月から「三過ぎる」口上が蘭兵衛登場シーンに来るようになった(例外は風)けど、それって実は蘭兵衛のキャラクターを語るに小さくない変更だと思っていて。私の中で花鳥月蘭兵衛は、天魔王に出会う前から無界での暮らしを自嘲し続けている蘭兵衛なんだよね。天魔王に会った後に「三過ぎる」が来るのとは意味が違う。花鳥月蘭兵衛は、即落ちになんら不思議のない蘭兵衛たちなのだ。だから荒野で再会したときに即落ちするんだよ、みうらん。

 まぁとにかくいろいろあって、死に場所を探す捨天蘭の3人の中で、あの頃のままのセーブデータを持っていたのは蘭兵衛だけで、天魔王も捨之介もそれぞれの形でゲームデータが上書きされていた。無界で甘やかされて生きたおかげで、データ領域にまったく手をつけずに生きてくることができたのだ。それは幸せなことだったし、そうしていつかセーブデータがどこにあるのかわからなくなるまで無界で生きられたらよかったのだ。けれど天魔王と出会った上弦三浦蘭兵衛は、出会ってしまったがゆえに「やり直しますか? ▶︎はい」のその先を、高い精度で再現してしまったのだ。

 無界襲撃時、ねばる荒武者隊に向かって「くだらぬ意地を」と言うシーン、あれってどこかで自分の姿と重なるんだと思う、きっと。そう考えると、ああ言いながらもきっちり荒武者隊を切って捨てる行動は上弦三浦蘭兵衛なりの筋で、荒武者隊の侍として死を完成させたのは上弦三浦蘭兵衛なりの優しさなのだと考えることもでき……ないこともね、無理矢理ね、うん、ないとはね、思うんだけどね、そんなふうに考えちゃダメだなという気持ちもある。

 こと上弦三浦蘭兵衛に関しては、そんなふうに深読みしすぎて、過保護に甘やかしたくなってしまう。ねー、よかれと思って殺したんだよねー、わかるよみうらーんって、庇ってあげたくなってしまう。なぜかというと、上弦三浦蘭兵衛は被害者ぶる行動を取っていないと感じるから。でも、あいつ外道なんだから、庇っちゃダメ。自分がやったんでしょ!って説教してやるくらいでちょうどいい。蘭兵衛は外道。これはテストに出てくれないと困る。

 2/11の異常に闇の濃い蘭兵衛、2/16の心震えるような蘭兵衛を経て、2/18マチネで思ってしまったことは、実はみうらんは太夫とふたりで付けたはずの極楽太夫という名前に全然思い入れなんて持ってないんじゃないの? という疑い。私はこの時期の上弦三浦蘭兵衛の無界襲撃の動機が全然理解できなくなってしまっていて、もしかしたら太夫に「極楽なんてどうかしらね」って言ったときに「そうだな」って、あの例の上の空の感じで、何にもわかってないくせに次男面して答えたんじゃないの? いいとか悪いとか思う前に、そんなに関心がなかったんじゃないの? などという疑念がこんこんと湧き上がってきたのだ。だから無界なんてどうだっていいんじゃないの? みうらんのバカ!!

 ……しかし、そこへ来ての急転直下。2/18ソワレでの上弦三浦蘭兵衛。蘭兵衛としての月日に思いを残しながら、同時にそんな日々を過ごした自分を恥じているような様子を見せたみうらん。あーっ! ここでそんな思いを乗せてくるなんて、あーっ! あーっ! ……からの千穐楽!! あの日の上弦三浦蘭兵衛の仕上がり具合に、私はただただ感無量だった。無界でのリラックスしたみうらん。捨之介が天魔王を止めると言ったときに見せた、繊細で傷付いたような表情。きっといろいろな想いや記憶が頭の中をよぎっていったんだろうなと思わせる動揺。赤蔵を斬るときに見せた苦悩の表情。

 何度も言うように蘭兵衛という男はひどいし自分勝手だけれど、最後まで自分勝手を通すことが翻って結果的な優しさを生み出しているんじゃないかと思わされてしまうほど、千穐楽の上弦三浦蘭兵衛は仕上がっていた。何をもってして仕上がりと呼ぶのかはわからないけれど、三浦翔平くんという役者が見せてくれる最高の蘭兵衛がそこにあったということなんだと思う。最後の1週間で三浦翔平くんが示してきた蘭兵衛の「構造」は凄まじかった。あんなにエモい構造化が成功していること、それがすなわち仕上がっているということなのだろうな、となんとなく思う。

 ただ、上弦三浦蘭兵衛は、死んだあとに殿のところにまっすぐは行けてないんじゃないかなって気がしている。なぜなら、みうらんは殿が本当に望んだようには生きなかったから。殿はきっと「命を粗末にせず生きよと言ったろうに馬鹿者、しばらくひとりで頭を冷やせ」と言って、みうらんをすぐ側に呼ばないんじゃないかなって思うのだ。きっと殿も、そのくらいの意地悪はしているはずだ。私もありがとうとか言ってやらないんだからね。謝辞だけど。

7.3 上弦早乙女天魔王、あるいは人の男

 はっきり言って早乙女太一が天魔王をやると聞いた時点から、気が気じゃなかった。言葉にしてみると「たぶん、太一くんは、あの、そういう感じの、演技を、する子なんで、あの、驚かないでください、初見の方々驚かないでください、あと太一くんの蘭兵衛が好きだとおっしゃっている蘭兵衛担当の方々、がっかりしたとか思わないでください、本当に、あの、お願いします、天魔王をお願いします」という気持ちでいっぱいだった。口に出して言う機会はなかったけど。いや、あったかな。うん、あったな…… 言ってたな……。

 そうは言っても実は上弦初日にはかなり油断していた。だってほら、歴代髑髏城のアバン前って、ほんわかぱっぱのハートウォーミングエピソードではじまってきたじゃないですか? なんか、そういう、構成上の油断があったんですよ。無理もないことである。

 そして私は「六欲天をご存知か」で死んだ。はい死んだ。中島かずきが仏教オタクを殺しにきた。日ノ本一の推し役者・早乙女太一が板に立ち、エクセレントな推しキャラ・天魔王a.k.a人の男を演じつつ、仏教という圧倒的な推しフレームワークを通じてバーン!とご存知かしちゃった。ご存知かしちゃったってなにごと? いきなりご存知かしちゃうなんて普通思わないでしょ?? 髑髏城冒頭でご存知かされちゃったことなんかなかったものーーー!!!

 あの冒頭の人の男ちゃん最初のセリフによって、八識ぶち抜きの串刺しでダイレクトに阿頼耶識をぶん殴られたってすごくないですか? いったい誰が正気でいられます? はーいごぞーんじー! ごぞーんじでござーいまーーーす!! 六欲天をご存知でーーーーーす!!

 ……そのようにして、私の上下合わせた月髑髏ライフははじまってしまった。もう最初からダメに決まってんじゃんね。

 初日の上弦早乙女天魔王は、いまだになんだったのかわからないけれど、なんかすごいのがいたね、あれね。初日には森山未來天魔王の影が色濃く残っていて、それ以降はなんだったのっていうくらいその影が消えちゃったんだよね。初日の上弦早乙女天魔王はなんだろうね、イタコかね。初日を観た人は一様にそう言うけれど、私も本当にそう思っていて、上弦早乙女天魔王に森山未來天魔王の影がかぶさっていたのは初日だけだって断言する。異論は認める。

 冒頭シーンで阿頼耶識にダイレクトアクセスされるため、その後も常時接続状態でお芝居を観ることになるわけだけど、髑髏城を観ていてはじめて「天魔王を死なせたくない」と思わされてしまった。完全にそのモードにぶち込まれてしまったのが、12/19ソワレ。六天斬りで下手に投げられるはずだったマントがその日は上手に落ちていて、上弦早乙女天魔王はそのマントを引き寄せてくちゃくちゃと抱えながら体育座りで泣いたのだ。いや、人の男が泣いたのだ。それを観て、私の阿頼耶識がこの子を死なせちゃいけないってささやいてきた。阿頼耶識の支配は絶対。あ、これ、大脳新皮質が蒸発したなって。私はのちに振り返って、そう思いました。

 それからしばらく死なせたくないモードが続くのだが、その時期はまどマギに例えると捨之介がほむらちゃんで天魔王がまどかちゃんの立ち位置なのだと思っていた。その後、1/7ソワレで「あ、こんなかわいそうな天魔王なら死んでもいいや。だめだ、死ぬ以外の選択肢がない、むしろ死のう、積極的に死んでいこう、天魔王」と思い、1/14ソワレで「やっぱり死んじゃダメー!!!」ってなった。その頃にはほむらちゃんは天魔王だったんだ、と気付く。捨之介もほむらちゃんなので、殿がまどかちゃんになるのかな。そんなのってないよ。捨天蘭って、ほんとバカ。わんぱくな魔法少女を前に、号泣することしかできなかったな。

 蘭兵衛の章でも書いたけれど、彼らのゲームのセーブデータを持っているのは蘭兵衛だけだった。上弦早乙女天魔王は、きっと無理矢理でもやり直そうとしていただけなんだと思う。蘭兵衛の持っているセーブデータがあれば、一緒にやれるって思ったんだと思う。けれど結果は違った。あそこまで時計が止まった純度の高いセーブデータを持って来られるとは思っていなかったから。セーブポイント、マジで本能寺なの? みたいな。もうちょっとなんかアップデートあったんじゃないの? って、天魔王もびっくりしたでしょ、あれじゃ。

 だって8年だよ? 上弦早乙女天魔王はさ、どんな思いでここまで生きてきたと思う? 何もない状態で世界に放り出されて、ひとり殿の骨を律儀に抱えて、どこかのタイミングでメルカリに全部出しちゃうことだってできたと思うのに、それをしないで自分で運用してきたんだよ? そりゃ天魔王だって戸惑うよ。おいおい蘭兵衛今何時代だと思ってんだよって、ツッコミたかったと思う。でもしょうがない、あいつ次男性がめちゃくちゃ強いから。それを見誤った上弦早乙女天魔王が悪い。

 ノープランで書き出したら、なんとなく時系列で語ってきちゃったので、ここから千穐楽までの話を流して書こう。実はライビュ日より後の上弦早乙女天魔王に対して、情緒の兄弟船みたいなエモい高揺れを感じなくなっていったのがおもしろかった。相変わらず阿頼耶識へのダイレクトアクセスは続いていたのだけれど、むしろ上弦早乙女天魔王の功徳によって不滅の業力が心地よく循環し、エモみの輪廻転生みたいな脳内麻薬ヒーリングが起こり、どえらい多幸感に包まれてさえいたのだ。その分、三浦蘭兵衛と福士捨之介の様子がおかしくなっていくので、結局は情緒がベーリング海レベルのもみくちゃを見せ、上弦酔いすることになるのだが……。

 上弦早乙女天魔王の中の人込みでの話をすると、前期より後期のほうが生々しかったなぁと思う。前期はいい意味でも悪い意味でも作り物感がまだ残っていた。それはきっと中の人である早乙女太一くんが全力でぶつかる相手がまだ出来上がっていなかったからなのかもしれない。板の上の演技でも殺陣でも。後期後半になってくると、蘭兵衛にも捨之介にも容赦ない速度で斬りかかるようになっていて、それが身体感覚としての圧倒的な生々しさを生んだ。リアルな呼吸の乱れや上下する肩。やはり実際の動作がもたらす肉体情報の量感はごまかせない。あの生々しい上弦早乙女天魔王の生み出す空気や空間をビリビリと共有できたことが、何よりの宝物だったと思う。

 そんな生々しい存在感の上弦早乙女天魔王を振り返って、思うのだ。蘭兵衛を殺したあと、捨之介たちが来なかったら、上弦早乙女天魔王はいったいどうしていたのだろうなぁって。私はうっすら、生きていく気なんてなかったのではないかと思っている。すべてを捨てることで死に場所を探している捨之介と対照的に、全てを手に入れることで死に場所を探しているのが上弦早乙女天魔王なのではないか。蘭兵衛を殿を天を自分のものにして、そのまま死ぬつもりだったのではないか、いまだにそう思えてならない。

 そもそも、というか、そもそものそもそもが、天魔王は信長に成り代わりたいとは思っていないのだと、私は思っている。第六天魔王は信長のニックネームとして認知されていたかもしれないが、信長本体を表現する呼称ではない。信長はあくまでも戦国大名であり、殿と呼ばれる立場の人間だった。しかし天魔王は一国一城の殿様になろうとは考えていない。「殿」という呼称に対応するのは「魔王」で、その自称からは目的が出世や立身に向いていない明白な意思が見え隠れする。やはりそこにあるのは怒りや憎しみであり、やり場のない情念なのだ。天魔王自身の情念が、一連の物語を駆け抜けた。それが髑髏城の通奏低音として常に響いてくる。

 上弦早乙女天魔王は、ひとりで必死に集めてきたものをすべて奪い取られ、孤独に死んでいった。それも、すべてを捨てたはずの男の手によって奪い取られるという皮肉な運命のもとに。死因は自害かもしれないが、追い込んだのは捨之介だ。双方にとって、こんな皮肉な話はあるまい。最後の最後にすべてを捨てることになったのは天魔王のほうで、そんな結果になるなら私はやっぱり天魔王を止めてあげたかったなって思う。ひとりで死なせるなんて、したくない。天魔王が外道だとしても、私はこの上弦早乙女天魔王に寄り添ってあげたいと思ってしまう。いいんです、そういう女なんです。人間にはいい悪いで片付けられないことがある。

 ワカみたいに、天魔王が無界襲撃をそそのかす側だったら、こんなふうには思わない。でも花鳥風月の蘭兵衛は自分から無界に行くじゃん。天魔王に再会する前から己の在りかたを自嘲して、無界を自分で潰しに行くんだよ。天魔王はそれに付き合ってやってる。外道オッズを考える際に、その点は考慮すべきじゃないかな。

 でもね、やっぱり上弦三浦蘭兵衛と上弦早乙女天魔王が、こんな形とは全然違った形で一緒にやり直せていたら、そんなふうに考えてしまうんだよね。月髑髏の天魔王は、もともと本当にやり直すつもりの天魔王だったんじゃないかって感じる部分が大きい。月の天魔王は、蘭兵衛に対して「花は散り頃を知る」って言わないんだよ。散らせる気なんて本当はなかったんだって、一縷の望みをつなげてくれる天魔王なんだよ。蘭兵衛がもうちょっと変われていたら、おまえにいいことを教えてやらなくてもよかったし、務めご苦労しなくてもよかったんだよ。

 上弦の天魔王は、いや、人の男は、とってもがんばった。上弦早乙女人の男を大事に大事に抱きしめてあげたい。もう死ななくていいんだよ。うまくやれなくてもいいんだよ。ひとりでがんばらなくてもいいんだよ。ありがとう。ずっとがんばってくれてありがとう。

 私が上弦早乙女天魔王に肩入れし過ぎているのはわかっている。わかっているけど、私は天魔王担当なんです。人の男担当なんです。早乙女太一担当なんです。しょうがないんです。こればっかりはしょうがないんです。

7.4 上弦福士捨之介

 捨之介について、何を書けばいいのだろうか? ありがとうの気持ちはとても強いのだが、何を書けばいいのかは本当に難しい。考えれば考えるほど、福士蒼汰くんのことしか書けない気がする。月髑髏・上弦に通った日々は、上弦福士捨之介の成長を見守りに行っていた日々と言い換えることもできる。どう書き出したらいいかわからず、ずっと筆が進まなそうなので、これもまず時系列で書いてみる。

 キャラクターとしてまず最初に思ったことは、捨之介という名前を捨てないんだなという驚き。捨之介という名前を捨てずに、霧丸とどんなふうに生きてゆくのか。その点が興味深いと思った。同時に、上弦福士捨之介は、三途の河に何ひとつ流せない捨之介なんだなぁとも感じた。

 そんな上弦福士捨之介が、1/5ソワレで確変。この日の衝撃が今でも思い出せるくらいすごかった。上弦福士捨之介にとって「捨てる」とは生きさせられることと同義で、捨てることで死に場所を探している。このあたりからの中の人の段階進化がすごかった。

 くっきりしてきたのは、殿の駒ではなくなり「俺たちは自由になったんだ」と言いながらも、いちばん駒思考から逃れられていないのが捨之介だったという点。「囮になる」と言ったときの上弦福士捨之介は生きることと死ぬことの区別が付いていないようにも見えた。死ぬことになったとしても生きるつもりでいるし、死ぬつもりはないという意識そのものが死につながっていて、危うい端境にいた。本人には自覚がないけれど、幸い霧丸や太夫がそれを見抜いている。側に彼らがいてくれて、本当によかった。

 上弦福士捨之介のこじらせているところは、あんなにまっすぐでまぶしい笑顔を見せる男が、その実無意識に死に場所を探しているというところだし、その点は蘭兵衛よりもめんどくさい。蘭兵衛は真正面から自分自身の意思で死に場所を求めた。一方の上弦福士捨之介は、自己犠牲の意識なく、駒思考として命を投げ出すタイミングを探している。これは実はずるくて、他人を利用して己の死に意味を持たせるやりかただと捉えることもできる。そんなことはさせないと、強い意思で介入してくれた霧丸がいたから、そうならずに済んだ。もし上弦福士捨之介の隣にいるのが弱めの沙霧だったら、もしかしたら捨之介は死んでいたかもしれない。強めの沙霧なら大丈夫だったと思うけど。

 そんな上弦福士捨之介、1/23ソワレくらいから、天魔王が落ちた後の絶望の意味が変わったような印象を持った。それまでは、ほむらちゃん的なアレで、天魔王を死に至らしめてしまった絶望を勝手に感じていたのだけれど、周囲の仲間との関係性が(演技の中で)もうちょっと読み取れるようになってきたというか、ここにいる6人をいかに無事に外に逃がすかが、ちゃんと頭の中にあるように見えた。

 捨之介が「まがい物でも命は救える」と言ったとき、偽物である天魔王の首でも、戦で無駄死にする者をなくせるんだと言いたかったのではなかったか。「天魔王を止める」という言葉の意味は、天魔王を止めることで負の連鎖を止めるのだという意味ではなかったか。逆に言えば、天魔王の首がなければ仲間を安全に逃がすことは叶わない、きっとみんな死んでしまう、そういう絶望だったのではなかったか。自身が徳川兵を引き付けるという自己犠牲の姿勢は変わらないが、それは死に場所を求める行動ではなく、ある種の怒りから来る行動で、仲間を逃がすための行動なんだなと思えた。なんだかんだ言って、天魔王を止めることと生かすことは同義ではないのだ。

 2/13ソワレくらいから、光と闇を行き来する芝居に凄みが出てきたな、と感じるようになった。目から光を消す、目に光を入れる、という芝居を意図的にコントロールしてやり出したように見えた。目の光の芝居に注目するようになったら、途端に上弦福士捨之介の本当の気持ちが見えなくなってきた。天魔王を差し出して仲間を無事に助けたいという捨之介なのか、やっぱり天魔王自体を助けたいと願う捨之介なのか。

 しかし、もしも本当に純粋に天魔王を救いたいと思っているのなら、あまりに残酷すぎる結果だった。上弦福士捨之介が天魔王に対して取るアプローチは天魔王にとってはひどい屈辱だろうし、天魔王の死にかたは捨之介にとってこれ以上ないショックであったろう。そもそも捨之介は天魔王の何を止めたいのか? ちょっと会議室に呼び出して要素分解させたい。はい、今から捨之介のコンサルをしまーす、はい捨之介さんね、ここにね、書き出していきましょうね。なるほどそれが貴殿の短期ビジョン、はいそれでは中期的に見ていきましょうか、ってやってやりてぇだろ、本当。なんなんだよ。何がしたかったんだよ。ちゃんと言ってよ。みんなわかんないよ。

 この頃から、捨之介が正しいのかどうかわからなくなった。捨之介は何がしたいのかと考え出したら、ノイローゼになりそうだった。ただでさえ勧善懲悪の世界観を信じていない、どえらい天魔王担当の私である。捨之介の行動ってそれ正しいの? いやひとつの正義だろうけどさ、なんかちょっと甘やかされたヒーロー像なんじゃないの? 大丈夫? ドリンクバーいる? ココア飲む?

 そもそも、自分が何ひとつ捨てていないことを棚に上げて、だ、天魔王と蘭兵衛にあれこれ捨てることを強いてるって、なんなの? むしろそれって捨之介が天蘭に一方的に依存してるんじゃないの? 依存の対象であった殿が死んで、昔馴染みの2人に依存対象を乗り換えたかっただけなんじゃないの? いや、そんなことないでしょ、捨之介はがんばってるよ、必死で天魔王を止めようとしてるんだよ。だから何を止めるの? 天魔王を止めると何がうれしいの? 捨之介って本当に最後まで生き残るべきヒーローだったの?

 あーーーーーーーーーーーーーーーー!! ノイローゼになる。今思い返してもノイローゼになれる。捨之介のこと、疑いたくないんです。あのにぱっとした主人公然とした笑顔を信じて乗っかりたいんです。余計なことは考えたくないんです。勧善懲悪、上等です。でもあたし、天魔王担当だから。人の男担当だから。論破しなくちゃいけないんです、上弦福士捨之介を。あいつの取った行動を。苦しい! 苦しいったら苦しいよぅ! お願いだから捨天蘭みんなで上手にやり直してくれよぅ! 円環の理バッチリやり直してよぅ! お願いだよぅ!

 でもね、上弦福士捨之介にはみんながいてくれた。千穐楽に向かって、力強い上弦カンパニーがいてくれた。捨之介は彼らのためにがんばったんだって思えた。捨之介のまわりにいるみんなは、ちゃんと光の側にいるんだって言えた。彼らが引き戻そうとする捨之介なら、きっと大丈夫な捨之介なんだって、そう信じられた。彼らがいてくれたから、捨之介の自我に食い込んでいた殿という概念が正しく殿という個に切り出され、理想としての天が(天魔王の影を含まない形で)復元され、捨之介の自我が光の中で再構築されたのだ。殿との時間に照らされていただけの上弦福士捨之介が、これからは自分自身で光るための夜明けに向かってゆく。舞台ラストの「終」が浮かぶ空に、捨之介の未来がある。

 だから私は考えるのをやめた。感じるのだ。上弦福士捨之介を余すことなく感じるのだ。同じ時期に「構造」としての仕上がりを見せはじめた上弦三浦蘭兵衛とは対照的に、上弦福士捨之介は「象徴」としての捨之介になりやがった。しゅごい。福士捨しゅごい。福士蒼汰くんは捨之介だし、捨之介は福士蒼汰くんだよ。もうなんていうか、そこにしゅてのしゅけがいるんだよ。ふ、ふくしくん…… しゅてのしゅけ……しゅ…… しゅ…… そこにいるね、いるね、うん、ぺろぺろ…… ぺろぺろ……

 取り乱しました。私は捨之介担当ではないはずですが、上弦福士捨之介、本当に好きでした。ありがとう。ありがとうわんわん。

7.5 上弦平間霧丸

 ありがとうという言葉を一身に受けるために生まれてきた男、霧丸。正直なところ、前半はあまり注目していなかった。逆に言えば、悪目立ちもせず、嫌な意味で引っかかる箇所もなく、すごく自然に上弦平間霧丸はそこにいた。沙霧から霧丸に設定が変わったことで、きっともっと妙な感覚になるのかなって思っていたのだが、ちっともそうはならなかった。むしろ、今まででいちばんスッと入ってきた。スッと入ってきすぎて、情緒の兄弟船状態だった上弦カンパニーの中で、霧丸に改めて注目する機会が遅れたのだというのが正しい。そう、それが遅れちゃうほど、情緒不安定だったよね、上弦カンパニー。

 上弦平間霧丸は、ぐいぐい自分が前に出る芝居がなかったぶん、月髑髏・上弦全体の希望をかなりの割合で担っていた(同じくらい上弦のペースメーカーだったのは須賀兵庫だと思うが、それは兵庫の章にて)。上弦平間霧丸は、上弦福士捨之介に守られているようで実は自分で光っていたし、霧丸がいなかったら捨之介は最後まで救われていなかった。もちろんそういう役どころなのだと言われればそれまでだが、上弦福士捨之介の生の呼吸を見極め、それにぴったりはまる芝居を返していく中の人の力量は見事だった。運動量も尋常じゃなかった。上弦福士捨之介が後半あんなによくなっていったのは、上弦平間霧丸の中の人の打ち返しや照り返しの蓄積によるところが大きかったのではないかな。

 キャラクターとしての上弦平間霧丸は、おじいやおとうに素直にじっくり熊木の技術を仕込まれながら、一族を信じて尊敬し、一族の背中を見て育ってきたのだろうなという印象。ごく自然に仲間という存在を理解し、その大切さを知る人間なのだ。おじいやおとうからもらった節くれだったいい手。それをしっかり見てくれた捨之介を信用したのだろうし、改めてその手で持つ刃は明日に向けようと決めたんだと思う。

 とにかくずっと泣いているイメージの上弦平間霧丸、でもめそめそ泣いているという感じでもない。めそめそというなら、蘭兵衛のほうがよっぽどめそめそしている。泣いてなくてもめそめそしてるだろあれ。上弦平間霧丸は、こみ上げる自分の気持ちが抑えられず、生命力の強さが素直に発露された結果として、涙が溢れているんだろうなと感じる。涙は弱さの象徴じゃない。そんなふうに思わせてくれるから、上弦平間霧丸が大大大好きだった。

 私がいちばん好きな上弦平間霧丸のシーンは、無界の里に連れて来られてごはんを食べているシーンだった。おなかがいっぱいになったことで素直に笑顔を見せるきりちゃん、それを見守る太夫とおでんのやさしい顔。ステアラ上手前方席には、そのシーンがまるごとセットの柱で遮られて見えなくなる席が存在した。その座席に当たっているときは、心底さみしい思いをしたものだ。あれはね、構造上必要なものだったとしても、やっぱりよろしくなかったと思いますよ、本当にね。あの柱、最後は燃やしてほしい。燃やせ。

 あと、太夫が黄泉笛ソングを歌うとき、無界の2階でみんなを見ているきりちゃんがだんだん笑顔になっていくのがうれしくて、かわいくて、きりちゃん、きりちゃんきりちゃん、きりちゃああああああん!! ってなってた。私は霧丸担当ではないし、きりちゃんおじさんではないのだが、そんな私でさえもそんな感じになっちゃうやつだった。きりちゃん…… きりちゃん…… ぺろぺろ……

 そんな上弦平間霧丸については、ひとりっ子感がめっちゃある。ただし、ひとりっ子テンプレのワガママ児という感じではなく、一族等しくみな兄弟、みたいな逆の方向性のひとりっ子感。ワンオブゼムのオンリーワンって感じで、結果的に出るひとりっ子感。一族の誇りを持ちながら、でも別に家柄とか家督とかそういうことは全然二の次。自分たちの腕でできることを誇りにしている。

 捨天蘭はたぶん何時間でもファミレスで殿の話ができるけど、霧丸はドリンクバーだけで何時間もねばるくらいなら、俺バイトに行くわ! って言ってひとりさっさと帰っちゃうタイプ。いない人の話してるくらいなら、手に職つけたほうが自分のためにもなるし! 楽しいし! って、さらっと言っちゃう。おまえらもいつまでもそんな話してないで、バイトなり部活なり行けよな! って言ってくれる。捨天蘭は顧問がいなくなってどうしたらいいかわかんないのにね。だけど翌朝は絶対捨之介の家まで迎えに来る。早くしろよー俺まで遅刻しちゃうだろーって声かける。尊い。きりちゃん尊い!!! みんなのそばにいてくれてありがとうね!! ありがとうねぺろぺろ!!

 きりちゃんは衣装のお背中にずっと髑髏を背負ってたけど、復讐心が消えたあとは、あの髑髏下ろしてあげたかったな。これから捨之介と歩いてゆく未来では、きっと違うお衣装着てるんだろうな。普段着には髑髏なんか背負ってない、無印のボーダーくらい力の抜けたお洋服を着ていてほしいな。仕事服は仕事服でまたきっちりしたやつを、ね。

 あと、月の霧丸は仲間たちをどうやって弔ったのか、もしくはこれからどうやって弔うのかなっていうのは気になっています。劇中では御魂の森返しはしなかったけど、これから捨之介と一緒に行く先で、落ち着いて仲間を弔ったりするのかな。物語の外側で、いい人生を送ってください。ありがとう。ありがとうぺろぺろ。

7.6 上弦須賀兵庫

 上弦須賀兵庫は、上弦カンパニーにいてくれて本当によかったと思う。みんなそれぞれ上弦カンパニーにいてほしい人たちだけど、上弦須賀兵庫が欠けたとしたら、上弦の月は成立しなかったんじゃないかなって思う。ペースメーカーとしてもすばらしい仕事をしてくれたと思うし、中の人である須賀健太くんが持つ稀有なキャラクターが、あらゆるシーンの隙間でキラキラ輝いていた。

 上弦須賀兵庫は、前半は本当にただの無邪気な子どもだったよね。ピュアすぎてみんなほっとけなくて付いてくるし、仲間からたっぷり愛されているのだが、やっぱり全然太夫と釣り合う男ではなかった。太夫の年齢のせいではない。兵庫が子どもだったからだ。

 無界襲撃後に上弦須賀兵庫は、荒武者隊の死を前にして「うええ……」って声を出して泣く。あの「うええ……」を聞くたび、すぐ芝居止めてヴェルタースオリジナルを与えたくなる。その味は甘くてクリーミーで、こんなすばらしいキャンディーをもらえる兵庫は特別な存在なんだよ!! 今では私がおじいさんなんだよ!! 何それ意味わかんない!!! でも混乱した私がうっかり舞台に飛び出していく前に、太夫が兵庫をちゃんと抱きしめてくれる。同じく仲間を失った痛みを引き受けるかのように背中をさする。

 上弦須賀兵庫は、きっとあのときに子どもではなくなった。上弦須賀兵庫に元服という概念があったのかどうかわからないけれど、あれは精神的な元服だった。子どもではなくなった兵庫は、蘭兵衛を極楽に送ったあとの太夫と接して、また一歩大人になる。自分の痛みと太夫の痛み、両方を合わせて大人になったのではないかな。

 その階段を登っていく様子を、わりと初期の頃から変わらぬテンションで演じてくれた須賀健太くん。あの情緒兄弟船の中で北極星みたいな役割を担ってくれた須賀健太くん。上弦須賀兵庫はやっぱり、末っ子か孫だよね。兄貴なのに。みんなの兄貴なのに末っ子か孫っておかしいね。でも本当にそうなんです。現にヴェルタースオリジナル与えたくなっちゃってるし。特別な存在なのですって言いたくなってるし。あんまりおこづかい持ってないから、ドリンクバー代も出せなくて、ファミレスの外で窓越しに捨天蘭にちょっかい出すんだよ。それで蘭兵衛にため息つかれたりするんだよ。そんでチャリでバイトに行く途中の霧丸に、もう暗くなるから早く帰れよって言われるの。父ちゃん母ちゃんに心配かけんじゃねーぞって言われるの。俺そんな子どもじゃねーしって、石ころ蹴るの。

 かわいいかよ…… 上弦須賀兵庫かわいいかよ…… でも実力十分、流石の貫禄でした。本当にいてくれてありがとう。

7.7 上弦のみんなたち

 ここからはいろいろをごっちゃに書くけど、何から書けばいいかな。

 まずは上弦村木じん平、つまりおっとう。無界襲撃からずっと震えていたのに、鎌を手にして髑髏城に向かうと決めたときに震えが止まった。あんなに愛しい七人目がいていいものか。みんなと一緒に行ってくれてありがとう、おっとう。

 荒武者隊はみんな愛しいけれど、特に上弦家内赤蔵。なんで赤蔵だけこんなに愛しいかというと、無界襲撃時に斬られて倒れ込むおでんを抱きとめてくれるのが赤蔵だから。天魔王に威嚇されてあんなにおびえていたのに、最期まで必死で立ち向かったね。ありがとう、赤蔵。

 上弦傳田おでん。無界サンバのあと、スクリーンが開いていくとき、おでんが両手いっぱい広げて出迎えてくれるのが何より好きだった。ありがとう。あのシーン本当に本当に好きだったんだよ。ああ、上弦の無界に来たんだなって、いつも胸がいっぱいになった。おでんがああやって迎えてくれるから、上弦がこんなに好きになったのかもしれないよ。おでんのその姿が観たくて、下手席ばっかり狙うようになったよ。だからDブロックが私の居場所でした。上手ではあの姿がまったく見えないから、公演を観ていながらも、あのおでんを観ていないという人がたくさんいるんだと思う。それは心から残念なことだと思う。

 上弦市川贋鉄斎。もう言葉もありません。わんわん捨之介をなんとかうまいことしてやってくれて、ありがとうございました。なんとかうまいことしてやってくれてなかったら、まるまるずっと事故だったと思う。

 上弦山本生駒。本当はもっともっと意地汚く生きて、天魔王のやつを引っ張り出してやってほしかったよ。でも生駒の気持ちはわかるよ。そうだよね。きっと私でもそうした。いや、そうしちゃいけないの。わかってるけど、そうしちゃうんだと思う。そのしょうがなさを、生駒には乗り越えてほしかった。でもがんばったよね。ありがとう、生駒。最期のときを迎えるまでずっと天魔王のお世話をしてくれて、ありがとう。

7.8 挿入歌

 すごく基本的なことに立ち返ると、髑髏城のエピソードって、本当にたった数日の間に起こった出来事なんだよね。「月影が満ちた有明 これほどに短く儚く」って歌詞が改めて刺さってくる。長年一緒にいて、確かに何かを育んできたはずなのに、こんなちょっとの時間にすべてが起こって終わる。すべてが終わって夜明けが来るほんの一瞬のときを示唆する歌詞を、太夫が歌う。そんな切ない話があってたまるか。

 蘭の花が咲くといううつせの轍は、ダブルミーニングどころか含みが多すぎる。現世。虚。太夫の目からみた蘭兵衛は、倣わずともよいこの世の理に囚われているのか、それとも空虚なぬかるみに沈んでいるのか。しかも「咲く」のではなく「咲かさるる」。そんな蘭兵衛を、太夫は見出した。見出して大切にしてきたものを、あんな形で失う。

 アオドクロの黄泉笛ソングも好きなのだが、あの歌の歌詞は黄泉の花が花としての意味で描かれている。月髑髏での歌詞は、花が蘭兵衛のメタファーに成り代わっている。それは芝居にも表れていて、上弦三浦蘭兵衛は去り際に花を残さない。ただ自らが無界を仰いで去ってゆく。回転劇場のギミック込みのあのシーンは、いつも胸が潰れるような思いで観ていた。

 天魔王の章でも書いたけど、月の天魔王には「花は散り頃を知る」というセリフがない。その事実を黄泉笛ソングの歌詞を並べてみると、やっぱり天魔王は天魔王なりに、その花を轍なんかじゃない場所で咲かせようとしたんじゃないかなって、そう思いたくなるのだ。天魔王から見て轍に見える場所と、太夫から見て轍に見える場所は、それぞれきっと違う場所だったのだろうけれど。

 月の黄泉笛ソングを受けてのラストの夜明けは、だから余計に心に刺さる。みんなのそれぞれの夜が明ける。そんなやりかたで消したかったわけではないだろう因果が、それでもいびつな形で昇華された。蘭兵衛という花は、うつせからも轍からもいなくなった。確かにそこに咲いていた蘭の花の純情は、きっと太夫の胸の中には残り続けるのだろうな。

7.9 捨天蘭

 月髑髏・上弦では、捨天蘭の関係性にだいぶ心を持っていかれた感がある。どの髑髏城の関係性とも違う、若さゆえのつながり。こんなに上弦にどハマりしたのは、そこに大きな理由があると思っているよ。上弦だけが持つエッセンスって具体的になんなんだろうということをずっと考えていたので、まとまってないけど書きながら今さらまとめてみたい。ただし顔のよさ要因は除く。

 上弦全体を通じて味わいを深めているのは「誰かを通して見る自分自身の哀しさみたいなやつを見つめるしんどさ」みたいなものなんじゃないかな。まわりくどい表現しか思い付かないけど、今のところはその表現がいちばん脳内にある情報に近い。もっとシュッと表現できる言葉が見つかればいいんだけど。

 蘭兵衛の章で書いた「くだらぬ意地を」のセリフが蘭兵衛自身に返ってくるのと同じように、天魔王が蘭兵衛に言った「あわれなやつめ」も天魔王に返っていくって考えると、胸がぎゅうっとなる。他の髑髏シリーズでも同じセリフ・似たようなセリフが当然あるわけだけれど、月髑髏・上弦では特にこういう部分に上弦特有のエモさが凝縮されているような気がする。

 捨天蘭のそれぞれ違うイデオロギー同士がすれ違い、ぶつかり合う。過去を清算すること、主君の目指したものを成し遂げるために生きること、主君と共に立派に死ぬこと。贖罪、理想、プライド。人と触れ合えばほどけていくこともあるが、孤独であればあるほど時間がそれを煮詰め、凝縮し、増殖し、狂気へと変えてゆく。3人の大きな違いは、もともとのイデオロギーの違いだけでなく、8年間どんなふうに過ごしたかの違いでもある。

 イデオロギーを違えながらも、合わせ鏡でもあり、フィルターでもあり、捨天蘭の自我が互いに依存している状態。蘭兵衛は天魔王に会わなければ(無界のみんなのおかげで)依存から抜け出せるチャンスがあったけれど、会えばやっぱり共依存。若い自我を誰かに盲目的に捧げた代償はあまりに大きい。普通は若いうちに戦場で死ぬか、武将として持ち上がり出世するかなんだろうけど、捨天蘭は依存関係を断ち切る機会を得られないまま、なぜか何もない世界に放り出されちゃった。それが上弦の物語そのもの。

 みんな本当は殿の御霊なんかではなくて、自分たちの亡霊に囚われ続けてるだけなんだよね。だからこそひとりだけうまいこと依存と呪縛から解放された上弦三浦蘭兵衛、腹が立つ。天魔王は何もない世界にひとりで放り出されたに等しいし、捨之介はこれから霧丸と共に自分で乗り越えてゆく努力が必要だというのに、蘭兵衛には太夫や無界のみんながいて、最期の最期までお膳立てされてバイバイしたんだよ? ないわぁ。ずるいわぁ。どんだけイージー舗道なんだよぉ。

 もうなんかあいつ、あいつが持ってる鉄パイプ取り上げて殴りたいくらい腹が立つ。自慢の鉄パイプでいいだけメッタ打ちした後で、ごめんね大丈夫だよごめんね大丈夫だからって抱いてあげたい。なんなら私がみうらんに依存してる気さえしてきた。人の男担当なのに。大丈夫だよ、みうらん、国道沿いのファミレスであったかいココアを飲もうね。駐輪場も無料だよ。全然どうでもいいけど、いくら腹が立っても、みうらんの顔だけは殴れない気がしています。

7.10 捨霧

 「誰かを通して見る自分自身の哀しさみたいなやつを見つめるしんどさ」というのは、捨之介と霧丸にも当てはまりそう。物語の前半後半で光と闇が反転するように見える2人を、エモさ抜きで見つめることはできない。

 守ってやらねばと思わせる闇落ち寸前の霧丸を捨之介が救い上げ、後半で闇に飲まれそうになる捨之介を霧丸が救い上げる。けれど、どちらの場合も、光のほうへ向かうことができたのは、霧丸の生命力があったからなんだと思う。だから彼らは合わせ鏡ではない。全然シンメトリーではない。前半は救われたように見えた霧丸だけれど、差し伸べられた光と捨之介の手を握って離さなかったのは霧丸のほう。後半では、光のほうを見ようとしない捨之介の目に、無理やり光を入れる。光を握っていたのは、ずっとずっと霧丸のほうなのだ。

 最後のシーンで捨之介が言う「恐れ入ったよ」のひとことには、霧丸の生命力の強さを感じ、ずっと救われてきたと痛感する気持ちが全部含まれていてほしい。霧丸がその意味を正確に受け取ったかどうかはわからないけれど、捨之介が霧丸にそのひとことを伝えたことに意味がある。あのシーン、何回観てもじわっと来た。

7.11 最後に

 めちゃくちゃいびつだったはじめの頃から、みんなが成長した後半まで、ずっと観続けられてよかった。上弦早乙女天魔王に得体の知れない異質さを感じ続けた期間は若干つらみもあったけれど、上弦カンパニー全体のバランスが整ってきて、上弦早乙女天魔王が浮かなくなったって思えたのがうれしかった。

 舞台強者たちががっちりかつやわらかく土台や脇を固めてくれていたから、舞台慣れしていないキャストも思いっきり持ち味を活かせたり、ポテンシャルを爆発させたりできたんだと思う。特に2/11以降にカンパニー全体の温度感がぐぐっと押し上がった感じがして、公演期間最終ブロックの魔物は、よくも悪くもカンパニーにブーストをかけさせるものなんだなぁと実感した。

 そして月髑髏期間を通じてわかったことは、私は天魔王担当なのではなく、人の男担当なんだなってことでした。月髑髏が終わってしまったのはとてもさみしいし、喪失感でいっぱいだけれど、もう上弦早乙女天魔王が死ぬことはないんだなって思うと、安心して眠れる気がする。ありがとう、人の男。ゆっくりおやすみ。もう二度と悪い夢を見ないように。

 月髑髏・上弦に、心からありがとう。