『メタルマクベス Disc2』初日観劇後の解釈まとめ
Disc2初日を観ての最初の解釈をまとめておきたいな、と思ったのです。なぜならば、新感線ちゃんの舞台は2日目で演出やフローをかなり変えてくることがあるので、1日目に浴びたとんでもねぇバイブレーションを書き残しておきたくて。
修羅天魔もDisc1もはじめから完成されてる感すごかったから、謎のエネルギーを浴びて「ななななるほどですねぇーッ!?」ってなるの久しぶりだな… 懐かしい… この感じ… 好き…
— 夜日布まみと (@yahishigimamito) 2018年9月16日
ということなんですよ。上弦のときに1公演観劇するごとに観劇記録を付けていたんですけど、それが後々読み返して(自分にとって)めちゃくちゃ楽しいものになったので、今回も何かしら記録を残しておきたいなと。そういう感じのエントリです、これは。
ちなみに次回の観劇は本日9/17のソワレです。ドキドキ。
はい、で、ここから先はネタバレになるようなならないような微妙な内容、しかも完全に個人の捉え方から来る独自解釈なので、Disc2未見の方はご注意を。事実でも正解でもなく、単なる私の妄想です。
ワンクッションの画像を挟んでおきますので、お帰りになる方はここでお帰りくださいね!! お願いします!!!
Disc1とDisc2の間の解釈の違い
本当に個人的な解釈だし、自分の解釈を誰かに押し付ける気もないし、100人いたら100人の解釈があるのが物語のおもしろいところだと思うので、どうか怒らないで聞いてほしいんですけど。もちろん、明日には違うことを思っているかもしれないし。
Disc1のEPS軍はめちゃくちゃ中央政府感あったけど、Disc2のEPS軍は地方行政感あるんだよ… 伝わって…
— 夜日布まみと (@yahishigimamito) 2018年9月16日
Disc1マクベス橋本の実家である純喫茶マクベスは、政令都市の繁華街にある喫茶店のイメージ。商店街のおじさんたちも入れ代わり立ち代わりやってくるような、そこそこ活気のあるお店だ。洒落者のおじさんなんかもいてね、結構いろんな情報が入ってくるんだよね。ある程度耳年増になる部分もあるっていうか。とにかくカルチャーに触れられる文化的基盤がある感じがすごくする。
Disc2はね、違うの。政令都市じゃない。文化的基盤が激しく脆弱な地方都市。マクベス魔Ⅱ夜こと松ぼっくりは、そんなところで育ったのではないかしら。あの時代のぱっとしない小さな地方都市。松ぼっくりは、わけのわからないセレクトショップみたいなとこで出回っているバンドTシャツとか変な柄もんのパーカーを、最初は意味もわからず着てたんだと思う。地元のローカルラジオ番組を収録してるスタジオ近くにね、あるんですよ、そういう洋服を扱っている店が、たぶんね。
そんなバックグラウンドの違いがあると解釈してるんですよ、勝手にね。その違いがね、こう、観劇する自分の心にもたらすものがね、心を抉ってくるんですよ。
だから、Disc2には「地方都市出身でなんらかの成功を志したことのある“かつての”若者たち」に対する特攻バフがかかってる。クリティカル800%は出ると思う。「そんなこともあったけど、今は無難に暮らしてる」防御も無効化するし、「二度とあの頃のことは思い出したくない」封印も無効化する。そういう種類の精神攻撃が来る。
それがね…このつぶやきにつながるのね…。
夫婦の寝室のシーンではじめてボロボロ泣いてしまったよ… さくらこ夫人のエネルギーよ… 魔Ⅱ夜の腰引けてる微妙な優しさよ…
— 夜日布まみと (@yahishigimamito) 2018年9月15日
マクベス魔Ⅱ夜の中途半端なバンドマン感、あそこから連想(妄想とも言う)することは、地方の「そこそこできる子」。マクベス魔Ⅱ夜はなんとなく入った運動部で、県大会までは常連なんだけど、県大会で三位入賞することもないし全国大会までは行けない選手… ってイメージになるんですよ。
そう考えたときに、地方都市の閉塞感とか地方都市出身者が時折感じるどん詰まり感とか(今の時代ではなく、あくまで当時の話として考えてもらえれば)、それって「男の股は八方塞がり」にリンクするのでは、と思うわけだ。わーん。なんなの。ぐえええ。
クドカン戯曲のなじみ方について
Disc1のときには「クドカン脚本が持つ日本語コンテキストの妙」がすごいのだという内容を書いたけど、Disc2に感じるものはちょっと違っていて、Disc2はクドカン戯曲の持つ行間を余すことなく絞り上げてる感じがするのだ。それがね、心にくる。
Disc1はクドカン戯曲の行間があまり乗っていない感じがする。初日を観た直後のブログにも書いたのだけど、Disc1はシェイクスピアの戯曲に寄って整えられた感じがあり、クドカン戯曲全体の「どうしようもなさ」が寓話的な形に丸められているようにも見える。
それが何を意味しているかというと、正統派シェイクスピアの寓話とクドカンの日本語文脈のコントラストが味わいを生む座組だったってことだ。整った寓話の中では、クドカンの言葉遣いはあまりに軽い。だからそのコントラストが映える。
けれどDisc2では、クドカンが操る日本語文脈にコントラストが生まれにくい。なぜならDisc2の板の上には、搾り取られたクドカンの行間が乗っている感じがするから。新感線の舞台なのに、大人計画のにおいさえする。クドカン戯曲の行間が板に乗っているということは、すべてが現代的な物語に寄っているということ。この違いって、かなり大きい。
まだまだ妄想しがいのあるところいっぱいで楽しい
まだまだ思うところあるし、Twitterではもっといろいろつぶやいたりしているのだけれど、とりあえず現時点での解釈についての大きなところを書き残せたかな。今日のところはこれくらいでよさそう。
ちなみにDisc1からずっと考えている魔女の予言とグレコ出生の解釈については、やっぱりまだ保留中です。Disc2を観て感じた違いが、Disc1千穐楽時点での解釈にどんな影響をもたらしたかというと、「破滅に必要な要素を持つ人間が全員同じ血族である可能性」は違ってたな〜と考えるようになったことなんだけど、わかんないよ〜、わかんないよ〜。
解釈に正解があるとか思ってないし、自分とは違う解釈を味わうのがめちゃくちゃ好きなので、もっと他の人の解釈が聞きたいな〜と常々思っています。
2日目以降の公演、カンパニーにどんな変化があるかな? それを観て、自分の解釈にどんな変化があるかな? 待ち遠しいな〜! 脳内であれこれ解釈や妄想を繰り広げているときが本当に幸せだな〜! 演劇って尊いな〜!