夜にひしぐは神おろし

お芝居とか映画とか好きなものの話を諸々。自分のためのささやかな記録。

『新春浅草歌舞伎2019』浅草公会堂

あっという間に年が明け、2019年。このブログをぼちぼち書き出したのは去年のことなのですが、自分が見返してうれしいやつを書く、という目的で書いているのに、書かないで済ませたことが多かった。

今年は記録だけはひとことだけでも残していくぞ、という気持ち。いや、Twitterではつぶやき散らかしているのだけど(笑)。

2019年観劇はじめは新春浅草歌舞伎

というわけで、2019年観劇はじめは新春浅草歌舞伎でした。歌舞伎は去年そろりそろりと観はじめて、初心者も初心者って感じ。今年はコンスタントに観に行きたいなぁと思っています。

(あっでも「来年は観劇を減らします。本当です」という昨年の反省は忘れません。本当です。)

役者さんや演目についても知識ゼロ状態なので、観に行って筋書き読んでを繰り返しながら、自分なりの楽しみ方を育てていくのが楽しみです。

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そもそも浅草歌舞伎って?

今まで歌舞伎についてよく知らなかったので、浅草歌舞伎の位置付けについてもよくわかっていなかった。ざっくり言うと、若手の活躍の場なんですね。なるほどー。

次世代の歌舞伎界を担う花形俳優が顔を揃える「新春浅草歌舞伎」は、“若手歌舞伎俳優の登竜門”として39年という歴史があります。人気と注目を集め続け、地元の方々のご協力のもと、初春行事としてすっかり定着しており、お正月の風物詩として広く愛され親しまれています。
また、若手が古典歌舞伎から新歌舞伎、舞踊の大役に真摯に取り組み、互いに切磋琢磨をする。若手の成長、飛躍の場としてはもちろんのこと、歌舞伎の伝承という意味合いでも「新春浅草歌舞伎」は重要な役割を担っています。

新春浅草歌舞伎|イントロダクション

実際に観に行ってみたら、なんとなくその意味がわかった気がします。何事も若手登竜門的な存在は好き! あと2019年のチラシのデザインが好き。こういう位置付けだから、チラシのデザインもポップな感じでいけるんだなぁ、なるほどなぁ、と思いました。

新春浅草歌舞伎2019 の演目

歌舞伎初心者なので、どれもはじめて観る演目でおもしろかったです。自分用のメモも兼ね、ふりがな付きで。初見では絶対読めないよね(笑)。

  • 第1部
    1. 戻駕籠色相肩(もどりかごいろにあいかた)
    2. 源平布引滝・義賢最期(げんぺいぬのびきのたき・よしかたさいご)
    3. 芋掘長者(いもほりちょうじゃ)
  • 第2部
    1. 寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)
    2. 番長皿屋敷(ばんちょうさらやしき)
    3. 乗合船惠方萬歳(のりあいぶねえほうまんざい)

お話の筋で言うと、『義賢最期』と『芋掘長者』が好きでした。源平布引滝は去年の11月に平成中村座で『実盛物語』を観たので、少しだけ馴染みがあった感じかな。

源平布引滝は並木千柳三好松洛の合作っていうのも覚えた。並木千柳は『義経千本桜』などを書いた歌舞伎狂言作者の人で、三好松洛は同時代の浄瑠璃作者、よし、覚えた。こうやって知っていくの、とっても楽し。

『義賢最期』ではねぇ、戸板倒しと仏倒しで単純に「松也すごーい!」ってなったんですねぇ。めちゃくちゃ単純だけど、なにせ歌舞伎初心者なので(笑)。あれはお稽古とか大変なんだろうなぁって思うし、何度でも観たいシーンだなぁ。他の役者さんでも観たいやつ! こうやってお気に入りの演目ってできていくんですね。納得。

ちまちまと歌舞伎を勉強していきたい

そんなこんなでたっぷり楽しみました。お弁当やおやつを食べながら、幕間にお友達とおしゃべりするのも楽しかった。焼き立ての人形焼を席まで売りに来てくれるのが浅草ならでは。

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もともとちゃんと歌舞伎を観ようと思ったきっかけが『メタルマクベス Disc2』とコクーン歌舞伎の『三人吉三』。去年は平成中村座デビューを果たして、今年は浅草歌舞伎、という感じ。中村屋兄弟と松也を中心に観ていきつつ、歌舞伎の世界のことももっと知っていけたらなぁと思っています。

以前は歌舞伎より能のほうを好んでいたのですが、このままずるずると歌舞伎の世界に足を取られそうな気配は感じています。こわい。沼が広い。深い。

2018年の観劇まとめ 〜大変よく回りました!〜

映画より観劇のほうが多かった1年って、生まれて初めてかもしれないなーと思い、観劇まとめをしてみようと思います。正直びっくりしている。

こんなことになったのも2017年にいきなり回り出したステアラのせいだし、あんなに狂ったように回り続けた春夏秋冬を私は知らない。巨大なマニ車で徳を積み過ぎた感ある。積み過ぎた徳はもはや罪。本当に反省しているので、来年は観劇を減らします。本当です。

2018年に yahishigimamitoがよくツイートした単語

【2018年のまとめ】2018年に yahishigimamitoがよくツイートした単語

ざっくり数えた

計95回。なるほどですね。なるほどですね。本当にありがとうございました。こんなに観劇をした年はあれが最初で最後だったと言えるようにしたいと思います。基本的にステアラが悪い。主に上弦。

せっかくなのでマイベスト発表

いろいろなお芝居を観て、どれもそれぞれ素敵だった。中でもとりわけ印象的だったものに勝手にマイベスト賞をあげたいと思います。ありがとう、本当にありがとう。

2018年マイベスト劇場はIHIステージアラウンド東京

あの劇場の機構が大好き。オランダで省エネ省リソースのためにエコ思想で作られた劇場システムを、ニッポン的運用で台なしに特盛全部乗せミックスデラックスどんぶりのやりすぎ感にすり替えるところが主に愛しく感じる点です。真の意味で新感線にしかできない仕事だったんだと思う。

ちなみにステアラができてからマイ楽までにどのくらい回ったのかも気になって、おそるおそる数えてみました。どうやらちょうど50回だったようです。よく回りました。

上弦が回っていた頃のステアラ

写真は上弦が回っていた頃のステアラです。来年は行くのかどうかさえわかってない状態ですが、ステアラちゃん大好き。愛してる。新感線的ステアラ大千穐楽に参加できないのは残念ですが、心残りはありません。

2018年マイベスト演目は上弦の月

マイベストは文句なしに『髑髏城の七人 Season月・上弦の月』です。その他、ベスト情緒不安定賞、ベスト通ったで賞、ベスト号泣しすぎで賞、ベスト狂ったで賞、ベストパンフレット買ったで賞、ベストカフェでハンバーグ食べたで賞など、ベストWOWOW楽しみで賞、ベストでもWOWOW観るの怖いで賞、などなど同時受賞多数です。

その他の賞は以下の通りです。

あと2018年に新しく急に沼ドボンした俳優さんは以下の通りです。

  • 山口馬木也さん(ケイゾクからほぼ20年、なぜか今目覚めてしまった…)
  • 尾上松也さん(ハマるはずじゃなかったので、めちゃくちゃ動揺している)
  • 原慎一郎さん(修羅天魔の猛突が好きすぎて、おかしくなってしまった)

現場からは以上です。

『スリル・ミー』2018年・成河さん福士さんペア版の解釈壁打ちまとめ(ネタばれと妄想の塊)

先日、ネタばれなしのつもりの観劇記録を書いたのですが、もう一度観る前にどうしてもまっさらな状態の解釈壁打ちをまとめておきたくて、これを書いています。

最初に見たのは私役・松下洸平さん、彼役・柿澤勇人さんのペア。話の筋を知るのもこれが最初、まっさらの状態で観たはじめての『スリル・ミー』でした。その翌日、2回目の『スリル・ミー』として私役・成河さん、彼役・福士誠治さんのペアを観たのです。

2回観たうえで理解したのは、ペアごとに違う「私」と「彼」の関係性から来る違いと、回数を重ねたことで変わる見え方の違いの2種類を切り分けて考えたほうがいいということ。そこには繊細なるギャップがあって、考察を重ねる楽しみを味わううえで、一度整理すべきだと思っています。なので、ここでは以下の2点をベースにして語ろうと思います。

  • 話の筋を知ってから観たことで得られた体験
  • 私役・成河さん、彼役・福士誠治さんのペアの表現

ペアごとの「私」と「彼」の表現と関係性が違いすぎて、私にはそれらをごっちゃにして語れるだけの下地がまだないんですよね。それに次回観る予定になっているのも私役・成河さん、彼役・福士誠治さんのペアの回なので、一度そちらに寄せたいというのもあります。

加えて、以前のペアを観たことがないにも関わらず、このペアが異端なのではないかという感触もあって。私が受け取った解釈は『スリル・ミー』のメインストリームではないのかもなぁって思いながら、これを書いています。わかるようなわかんないようなアレですけど。

基本的には自分の勝手な解釈や妄想だけで進む話なので、これが正解だと言ってるわけでもないし、誰かに押し付けたいわけでもない。いつものように淡々と、自分が受け取って自分が味わっている最中の個人的な妄想を記録していきます。解釈という名の妄想です。

無意識に「彼」の目線でゲームを観ていた初回

セリフの行間から漂う1920年アメリカの空気。現代に通じる都市の原型ができはじめた頃、狂騒の時代とも言われる時代の豊かさゆえの退廃。それこそフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』を彷彿とさせるような状況描写と、ニヒリズムに染まるかのような「彼」と「私」の姿に対して、なんとなく納得感を感じる。もちろんその時代を生きたことはないのだけれど、資本主義精神の加速が生んだおぼっちゃんなんだろうなぁって勝手に思っている。

時代の狂乱の中で、自分だけが「彼」にとって価値ある存在なんだと言い、彼のいる方向に向けて世界を閉じているかのような「私」。あの時代の富裕層の傲慢さと、自分たちは特別だという優越感と、長い月日が織り上げた歪んだ関係性。幼馴染と言い切るにはあまりにいびつなその関係。

私の目線は「彼」が一方的に進めるゲームに必死に追い縋る「私」という構図の上に走っていて、つまり自然と「彼」のロジックを追う形になっていた。もっともそのことに気付いたのは2回目を観終わったあとなのだけれど。

私はこのとき、本当にまだなんにもわかっていなかったなぁって、愕然とする。2回目を観ながら、それをヒリヒリするほど体感することになったんだ。あんなヒリヒリすると思わなかったよぉ… とんでもないヒリヒリだった…

「私」の目線で物語を追い直す2回目

私にとって、この2回目の観劇体験が強烈で。2回観ることにこんなに意味がある芝居があるなんて。初回は無意識に「彼」の目線に合わせていた事実を突き付けられたし、2回目はおそろしいほどに「私」自身がくっきりと見えた。芝居中にどんどんつまびらかになる様々なダブルミーニングに震えるしかなかった。

言い換えると、私の目がこの戯曲の構造を考えた人の思う通りに芝居を辿ったということなのかもしれない。芝居を作った人の意図どおりに、おもしろいくらいストレートに視点を誘導されていくスリル。なんなのマジで。

「彼」の計画だと思って観ていたものは、徹頭徹尾「私」の計画で、「私」のスリルで、でもきっとやめることができた計画でもあった。あのときが来るまで、計画は願いと祈りの行為にも通じていた。ああ、本当のゲームチェンジは「彼」が「私」を捨てようとしたときだったんだなぁ。これは想像だけど、きっとあのとき「彼」が「私」と契約者として共にあろうとしたら、引き返せる計画を持っていたのあろうと思う、「私」は。もお〜!! もお〜!! そういうとこだから!! 本当にそういうとこだからね!!

問題は、成河「私」はどこから計画をはじめていたのだろうか、ということ。松下「私」は最初から計画してこうしたという感じではなくて、何がどうなろうと捨て鉢みたいだったのが印象的だった。それが初回だから感じた印象なのか、表現の違いによって感じた印象なのかはわからない。違いがどこから生じるのかという点は今は決めつけないでおきたいのだけど。

ともかく、2回目のときの誘拐計画の会話で成河「私」が言った「親なら息子に金を払う」のセリフ、あそこで背筋がゾクッと粟立った。いつか「彼」が逮捕されたとき、自分も一緒に入れば自分の親がお金を出す必然性ができる、彼の父親がお金を出す可能性は高くないかもしれない、でも自分の親は「私」のためにお金を払うだろう。「共犯」であるがゆえに、2人は一蓮托生になる。そういう意味なんだと悟った。口から何か飛び出ちゃうかと思った。

どうして弟を避けて他のターゲットを選ばせたのかも、やっとわかった気がした。あれはギリギリのスリル、死刑になるかならないかのギリギリのスリルだったのではなかろうか。「彼」が弟を殺したら死刑が確定してしまう。死刑なのか、終身刑として2人で檻の中に入るのか、どちらに転ぶかわからない「私」のスリル。

共犯であることを利用するであろう「私」の計画を悟ったとき、同時に自分自身の存在にも新しい意味が生じて、愕然とした。「共犯」という言葉もダブルミーニングなのだ。結末を知ったうえで2人を目撃している私は、今この瞬間この座席に座っている私自身は、すでに「私」の共犯者だったのだ。共犯のスリル。私自身のスリル・ミー! なんという… なんという衝撃…。あまりの衝撃におもらししたらどうしてくれるんですか…。

「彼」と「私」の描写について

いきなり話は変わるが、2回目を観る前に、知人から福士「彼」のシャツの後ろ身頃が毎回はみ出しているのだという話を聞いた。実際に観たら、やっぱりそれも演出なのではないかと実感したんだけど、もしそうだとしたら、それは成河さん福士さんペアだけの味付けで。なんなんだよ! このペアなんなんだよ!

誘拐した子どもの背中のあざについて話していたとき、「彼」は「背中まで見ない」と言った。「彼」の背中のシャツが出ているのは「彼」が「背中まで見ない」ことの象徴なのではないか、と思わされてしまったんだよね…。「彼」は自分の背中も見ないし、自らの傲慢さから誰に背中を預けているのかを軽視している。そして「私」の計画に落ちてゆく。なんだよ〜、なんだよ〜それ〜!!

他のペアではどういう描写になっているのかわからないけれど、成河さん福士さんのペアのこうした表現がいちいち刺さってしまって、つらい。

そもそも、成河さんが歌いはじめた瞬間から涙が出て止まらないくらい、その表現に心動かされたのだよなぁ。でもその涙はお話の力を感じて出る涙じゃなくて、成河さんの芝居が空気で伝わって流れる涙だった。もうその時点で成河さん福士さんペアの表現や描写にやられてるってことなので、最初から完落ち状態だったのだと思う。特に成河さんファンだったわけでもないのにこんな状態なので、成河さんのお芝居が相当な威力だったんだと思う。

このまま勢いでずるずる話すけど、契約のナイフを使うときの「前にもやったことがある」っていうセリフについてもいろいろ考えた。何をやったことがあるのか。ナイフで切ることか、血でサインをすることか、誰かと契約を交わすことか。

私が想像したのは、たぶん「私」にしたのと同じような契約を、少なくとも2回はしてるんじゃないかってこと。もちろん相手は大なり小なり破滅の道を辿って、だから大学を変えざるを得なくて、世間体を気にするパパはそういうときだけは根回ししてくれて、今に至っているのではないかな。子どもの頃もそうだった。きっと最初にそれをしたのは、「彼」が「私」の前から最初に姿を消したあの夏の日。

もしかしたら昔はとっても弟と仲がよくて、最初の契約者は弟だったのかもしれない。裕福なユダヤ家系の長子として優遇されてた「彼」を父が見放したきっかけ。あの時代のああした家系で長子があれほど疎まれるには理由がありそうな気がして。

最初は弟、圧倒的に自分より弱い存在。次はクラスメイトのような人物。少しずつスリルの質を上げる必要があって、きっと「私」は「彼」のスリルの切り札だった。「彼」は「私」を手札だと思っていたから。手札になんかできていないのに、それに気付くこともなく、むしろ自分が背中を預けていることにも無自覚で。ああ。なんなの「彼」。

それが「彼」の人間としての限界だったのか、それともスリルに溺れた人間の末路だったのか。ああ、どっちだとしてもため息しか出ない。ううう。成河さん福士さんペアの表現、マジでやばくないですか…。

『スリル・ミー』の中のニーチェ

さて今度はニーチェの話。「彼」と「私」の2人は、それぞれニーチェの影響を受けていた。そのことに着目して考えてみたい。まとまる気はしないけど、とりあえず。

最初はそもそも、「私」がどのくらいニーチェに傾倒しているのか疑問だった。「彼」がニーチェにかぶれてたことを知ったうえで、「私」は「私」自身のゲームをしていたように見えていたから。「私」はニーチェにさえ興味がなくて、鳥と「彼」にしか興味がないんじゃないのかなぁ、と思っていた。

もちろん「彼」も別にニーチェに心酔してたわけじゃなくて、ニーチェの言葉の端々を都合よく捉えて屁理屈つけて、自分のしたいようにしていただけなんじゃないかなと思っている。「超人」という言葉の捉え方があまりに恣意的、そうでなければ稚拙な解釈もいいところだし、永劫回帰のロジックから言えば「彼」は全然「超人」なんかじゃないんだよね。「彼」は「超人」に至るために必要だとされる重荷を何ひとつ担いでないどころか、重荷をほぼ「私」に丸投げしてる。それでどうやって「駱駝」に至り、「獅子」に変わるというのか。

「私」と超人思想

そんなことをぐるぐる考えていたら、「私」が最初から超人思想の気配を漂わせていたことに気付いてヒヤッとしたものが顔を撫でたような気がした。「彼」の付き合う相手を空っぽだって言うくだり、あれを多数のライバルに対する嫉妬だと捉えることもできるけれど、セリフの意味だけを捉えてみれば、自分以外の人間が「末人」だと指摘しているようではないか。

弟を避けて他のターゲットを選ばせたときもそうで、「彼」に対して「超人」ではなく「罪人」と呼ばれることになるよ、という「私」なりの符牒もしくは仄めかしだったのではないか。あのとき「彼」はそれに呼応して心を変えたのではないか。もちろん「私」には死刑確定を回避したいという計算もあったのだろうと信じているが。

スリルと祈りの狭間で引き裂かれるような日々を送っていたはずなのに、「私」は超人の証明であり「彼」を手に入れる手段としての計画=「私」のゲームを最後までハンドリングした。それが「私」のスリル。「彼」は超人の犯す殺人は「正義」だと言ったが、ニーチェ的な善悪のコペルニクス的転回によって「彼」と「私」も転回し、関係性がひっくり返る。皮肉にも「正義」をつかさどるはずの弁護士によってもたらされる大いなる矛盾を利用して、「私」はそれを実現した。うわーっ!! うわーっ!!

長い長い「駱駝」の旅を経て、「彼」が「私」を捨てようとしたとき「獅子」が聖なる「No」を突きつけた。留置場の中で「私」が言った「なんでもしてあげるね」の言葉は幼子の「私」による無垢の「Yes」。そして「私」は「超人」へと至り、99年の価値を創造した。愛の幻想に陥っているのではなく、徹底した苦悩に身を置くことで自己超克するための超人証明ゲーム。神なき世界において、自分たちのあるがままの姿を肯定することで自らの存在を生成し、価値を創造する!! ねぇ聞いてますかニーチェさん! この人たちこんなことしてます!!

もしニーチェの思想に従うならば、もうすでに「私」は超然たる自由の持ち主であるはずで、仮釈放時に陪審員から「君は自由だ」と言われたあの言葉は「私」にとってどんな意味となって届いたのだろうか。「自由」という言葉をオウムのように繰り返す成河「私」を観て、私はただただ言葉を失うしかなかった。

「船」の比喩とニーチェ

ここまでに考えてきたことを踏まえると、老いた「私」が契約について語る「はじめは小さないたずらでした」のセリフは、契約を交わした後の話をしているのではなくて、幼い頃に遡って話してるように聞こえてくる。2人で少しずつスリルという種を太らせてきたんだなって感じられるような。自分だけのスリルを見ていた「彼」、2人の間でのスリルを見ていた「私」。

語りの中で唐突に出てきた「船」という比喩に引っかかりを感じていたのだけど、「私」と「彼」の間にある友情、それはつまりニーチェの言葉を借りれば「星の友情」なのではないかなと思い至った。

 かつてわれわれは友人同士であったが、いまや疎遠となってしまった。しかしそれは当然のことであり、われわれはそれを恥ずかしいことのように隠し立てしたり、誤魔化したりしようとは思わない。われわれは、それぞれが自らの目的と航路を持つ二艘の船なのだ。(中略)われわれが疎遠にならなければならないというのは、われわれを覆う掟である。まさにそれによって、われわれは互いにいっそう敬意を払うに足る存在となるべきなのだ! そして、かつてのわれわれの友情の思い出が、いっそう神聖なものとならねばならないのだ! おそらくは、われわれのさまざまな道や目的が、ささやかな行程として含まれるような、目に見えない巨大な曲線と天体軌道が存在する、――そうした思考にまでわれわれは自らを高めよう! しかしそうした崇高な可能性の意味で、友人を超えたものとなるには、われわれの人生はあまりに短く、われわれの視力はあまりに脆弱である。――そうだとしたら、たとえわれわれが地上では互いに敵とならざるをえない場合にも、なお星の友情を信じることにしよう。

河出文庫『喜ばしき知恵』第四書――聖なる一月 二七九 星の友情 より

そんなことはこじつけで、全然関連のないことなのかもしれない。冒頭から繰り返すように、私個人の妄想でしかない。それでもこれに思い至ったとき、成河「私」の表情が頭いっぱいに広がって、私の心をさらに強く打ったのだ。致死量。

「鳥」の比喩とニーチェ

護送車の中で「私」が語る「奇妙な鳥」のくだり。「私」の趣味がバードウォッチングであること、2人が閉じ込められる監獄を鳥籠にたとえたであろうこと、は想像に難くない。でももし「私」がニーチェに傾倒していて、それを意識したセリフだったとしたら、どういう意味が考えられるのか?

 それがわたしのアルファにしてオメガだ。すべて重いものは軽くなり、すべて身体は舞踏者になり、すべて精神は鳥になる。そうだ、これがわたしのアルファにしてオメガだ。
 おお、ならばどうしてわたしが永遠にこがれずにいられようか、指輪のなかの指輪である婚姻のしるしに――回帰の円環に。
 いまだ子どもがほしいと思える女に会ったことがない。だが一人ここに、愛する女がいる。子を生まれたい。わたしはあなたを愛しているのだから。おお、永遠よ。
 あなたを愛しているのだから。おお、永遠よ。

河出書房『ツァラトゥストラかく語りき』七つの封印(あるいは然りとかくあれかしの歌) 六 より

「彼」と「私」が一蓮托生であること、性別を超えてひとつになること、永遠という時間を見つめること。「私」が「彼」と共に生きていくために必要なことが、この引用文の中に詰まっているように思えてしまって、気が遠くなる。

これだってきっとこじつけだ。厨二病極まれり、だと思う。だとしても、ニーチェを背景に敷きながら観る「彼」と「私」はあまりに叙情的でくらくらする。

なぜかループする解釈、まとまらない感想

実はここまでの壁打ちで、何度考えてもループしてしまう部分があって、ちょっと怖いなって思っていることがある。「彼」のことを考えて理屈を積み上げているはずなのに、気が付くと「私」の人物像に戻ってきている、もしくはその逆が起こることがあって。

「彼」のことを考えていると「私」のことになってしまい、それが「彼」の側の論理である理由がなくなる。いつのまにか完全に「私」側の論理になっている自分に気付いて、考察やり直し。そんなことが何度か起こって私は大変混乱していて、もう一度観たらまた何かわかるのかなってドキドキしている。ぜんぜん噛み砕けてないだけなんだろうけど… こわい! なんだかこわい! ってなっている。

「彼」と「私」がひっくり返っちゃったまま考察を続けるなら、「おまえが必要なんだ」の意味も違う意味になっちゃう気がするし、メビウスの輪みたいにひっくり返りながら永遠に考察が終わらない… こわい… 『スリル・ミー』っていうお芝居、これはいったいなんなの? こわい。本当にこわい。

とはいえ、今私がせっせと壁打ちしている成河さん福士さんペア考察の延長線上だと、最初のきっかけはいつも「私」。「私」がはじめた2人のゲーム、その興奮の虜に(無自覚なまま)なってしまったのが「彼」で、「私」は「彼」の優秀なオーディエンスでありスポンサーでありパートナーだった。すべての原資が「私」側にある。そんな感じです。

あー、もう行かなくちゃ。これをえいやっと投稿したあと、3回目の『スリル・ミー』に行ってきます。ギリギリまで考えてみたけど、わからない。何もわからない。数時間後の私はいったい何を思うのか。はぁ。こわい。

おまけ:登場するプロダクト

『スリル・ミー」に登場する1920年代のプロダクトとして気になっているのが、車と眼鏡。なので、そのことだけ最後にメモして終わりたい。

1920年代といえばまだ蒸気自動車の時代で、T型フォードが全盛だよね。エポックメイキングなスポーツカーって1920年代後半に発売されている物が多い気がするから、十中八九フォードなんじゃないかと思うんだけど、ベントレーの線も捨てきれないのかな。

眼鏡のほうは、ロイド眼鏡が流行ってた頃なのかもしれない。願望ベースでいえば、アメリカンオプティカルあたりだとすてき、と思っている。

『スリル・ミー』東京芸術劇場シアターウエスト(ネタばれなし)

先日ミュージカル『スリル・ミー』 を観てきました。1920年代に全米を震撼させた少年誘拐事件を基にした究極の心理劇で、事件を起こした二人の天才が主役。主役どころか舞台上には2人しかいない。そういうお芝居でした。

出演者はたった2人。
“私”と“彼”、そして1台のピアノ。
難題に挑むのは、演劇界きっての若手実力派の俳優たち。
シンプルであるがゆえに緊迫した空間。
客席を圧倒するエネルギー。
強烈な旋律の頂点に向かって走る100分間。
世界各国で上演が相次ぎ、異例のロングランを記録している話題作。

ミュージカル『スリル・ミー』 | ホリプロ オンライン チケットより

日本でも何度か上演されていて、ディープなファンも多いんだとか。私は今回、はじめて観に行ったのですが、めちゃくちゃよかったです…。あまりの衝撃にひたすら感想や解釈の壁打ちをする日々…。気付いたら観劇してから何日も経ってしまいました。はー、本当に衝撃。

シアターウエストの入り口にて

何度目かの再演なので、ネタばれ回避が難しいくらい情報が出回っているかとは思うのですが、私は前情報を全く入れずに観に行ってよかった! と心の底から思っているので、ネタばれなしで観に行ってほしい… でも内容のオススメはしたい… という気持ち。

実は自分の感想&解釈壁打ちが終わるまでは他の人の感想を入れないようにしたくて、まだ人様の感想を読めていません…。この観劇記録と壁打ちまとめを書き終わったら、他の人の感想を読もうと思って楽しみにしています。

スリル・ミーの魅力

ということで、ネタばれなしで拾えそうなよかった点、オススメできる点をふわっと書いていきます。ネタばれなしのつもりですが、人によってネタばれの感度は違うので、やばいと思ったらここでお帰りください。

ざっくり言うと、3つの魅力に分けられるかなと思っていて。

  • 舞台空間が織り成す没入感
  • 俳優の演技による説得力
  • 底の知れない戯曲の構成

このひとつひとつが完璧に存在する劇場空間を味わえることが、とってもうれしい。そんなふうにゾクゾクできるお芝居に出会えて幸せだなって思いました。それぞれについて、ネタばれにならない程度に、もう少し詳しく書きます。

舞台空間が織りなす没入感

あまり大きくない劇場で、音楽はピアノ1台。シンプルだけど技工に満ちたライティング。誰かの息を飲む音すら聞こえそうな、そんな張り詰めた空間に身を置くこと自体が非常にスリリング。

じっと開演を待つ間、自分の鼓動が少し早くなるのを感じる。最初のピアノの音で、鼓動がひとつ跳ねるのを感じる。そんな非日常の舞台空間がもたらす『スリル・ミー』の没入感は特別でした。あのドキドキをぜひとも感じてほしい… あの高まりを自分もまた味わいに行きたい… 私にとっては、舞台空間だけでリピートに値する価値でした。

俳優の演技による説得力

今回の2018年版では、2組のペアが『スリル・ミー』を演じています。私役・成河さん、彼役・福士誠治さんのペア、私役・松下洸平さん、彼役・柿澤勇人さんのペアです。

ロビーの撮影コーナー

私は成河さんと福士さんペアに興味を持って『スリル・ミー』にこんにちはしたんですけど、どちらも違った関係性が感じられて、これ知ってるやつだ… みんな違ってみんないいやつだ… 違いの沼がぱっくり口を開けて広がっているやつだ…!!」と震えています。こういうパターンに弱い。驚くほど弱い。過去作がめちゃくちゃ気になっているし、たぶん未来の再演も観ちゃう…。

特に注目していた成河さんと福士さんのペアは、予想も期待も超える表現を観せてくれた。どのペアの関係性・どのペアの表現が好きかっていうのは、好みの問題でしかないので大したことではないと思っていて、好きなペアの何に心動かされたのかっていうのが重要だと思う。

私が成河さん福士さんペアに心打たれたのは、繊細な感情表現と状況描写。今そこで起こっていることが空気に乗って伝わり、まるでそれに触れるような錯覚に溺れそうになる。これがミュージカルでなくストレートプレイだとしても同じだけ心が打たれるであろうと確信できる。2人が作る空気の波にさらされる時間がすごく気持ちよくて、演劇が好きだなぁって心から思った。

底の知れない戯曲の構成

お話の構成が普通におもしろい。これについては解釈の壁打ちが全然終わらなくて、まだまだ味わい尽くせていない気がしているのだけど、何も考えずに素直に観ているだけで普通におもしろい。解釈の壁打ちなんてのは物好きが己の楽しみのためにやることなので、そんなことはどうでもいい。素直に観てれば普通におもしろい。それで十分ではないか。

でも、でもだよ、もしあなたが物好きなのだとしたら、観た後の衝撃や戸惑いや謎を反芻する楽しみはとんでもなく膨大に広がっているよ… おめでとう… おめでとう…。

そんな調子で、私もまだ全然壁打ちが終わっていません。年内にもう一度成河さん福士さんペアを観に行く予定なので、それまでには一度区切りを付けてから観に行きたいのですけど、全然終わる気配がありません… こわい…。

『スリル・ミー』、2回は観てほしい

現時点では、違ったペアを1回ずつ観たのですが、どのペアを観るかはともかく、2回観てほしいお芝居だなぁと思っています。どうして2回観てほしいのか、めちゃくちゃ詳しく書きたいところなのですが、それはネタばれありの場所で思う存分書きたいなって思います。

2018年の最後に、とんでもなくハマれるお芝居に出会えてよかった。今はそんな気持ちです。現場からは以上です。続きは壁打ちがまとまったら、ネタばれありの壁打ち記事で書きたいと思います。

『ロミオとジュリエット』本多劇場、初日

宮藤官九郎演出の『ロミオとジュリエット』、初日に行ってきました。ネタバレしない程度の観劇記録を残しておきます。個人的には本多劇場での観劇もとっても久しぶりで、2015年の改修後に中に入るのははじめて! めちゃくちゃ新鮮な気持ちでした。

本多劇場の入り口にて

クドカンロミジュリって、ざっくり、こんなお芝居

ベースはもちろんシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。細かいことは知らなくても、あらすじくらいは誰でも思い浮かべることができる有名戯曲ですよね。公式サイトに載っている発表当初のクドカンのコメントを引用すると

私ごとですが2年ほど演劇を怠けておりました。
そしてこの後、またしばらく演劇を怠ける予定です。
なんだか後ろめたいなあ。そう感じていたら、「三宅さん主演でロミオとジュリエットをやりませんか?」というイカれた企画が舞い込んだ。
しかもジュリエット役の森川さんは初舞台。これは演劇人として初心に帰れということか・・・。
というわけで、現段階で決めていることは
「なるべくまんまやる!」 

宮藤官九郎

とのことなんですけど、まーなるべくまんまやる!ってホントかな?(絶対そんなわけないよね…?)なーんて思ってましたよね、観る前は。どのくらいまんまだったのかは、皆さんが実際にご自分の目で観てのお楽しみということで、ここでは言及しないでおきます。

ざっくり感想

ここからも引き続きネタばれにならないよう注意しつつ、ざっくりと感想を書き残します。1ミリも前情報を入れたくない人はお引き返しください。

何がやばいって音楽が向井秀徳

もうこれですよ、ファーストインプレッションこれに尽きる。音楽担当が向井秀徳なのは公式サイトのキャスト情報にも書いてあるし、ネタバレには当たらないと思うので書くけど、冒頭からいきなり向井秀徳の息吹を感じることになるんだ我々は…。

最後には歌入りで曲が流れるんですけど、一瞬幻聴かなって思う。キサマに伝えたい、俺のこのキモチを。この冷凍都市で現代の琵琶法師向井秀徳のトラックにシェイクスピアが乗るのを目の当たりにした、俺のこのキモチを。キサマに。伝えたい。

完全に向井秀徳ボイスが脳内再生余裕なレベルで、向井秀徳のグルーヴが鳴り響き、そしてそれがこの作品全体のポップでキッチュな雰囲気を終わりまで包み続ける。いやいやいやいや、何度考えてみても、本多劇場向井秀徳のグルーヴで満たされるって、やっぱり意味わかんなくないですか? おかしいね?

考えるな、感じろ。向井秀徳シェイクスピアでありシェイクスピア向井秀徳なのだ。(そんなことはないと思います)

キャラクターがみんなかわいい、とってもかわいい

三宅弘城さんのロミオがガチのロミオで、はっちゃめちゃにかわいい!! ガチのロミオってなんなんだって話ですけど、想像以上にロミオしてたのでビックリです。これに関してはもうシェイクスピアってすごいなって。シェイクスピアの汎用性、いや失礼、普遍性ってすごいんだなって言うしかない。

皆川猿時さん演じるティボルトのビジュアルがかわいすぎて、猿時さんのためにあるビジュアルだなって思った。猿時さんがバタバタと駆け回ってるだけで場面がおもしろくなるの、本当に不思議。あの人ただ走ってるだけじゃん? なんであんなにおもしろいの? 最高じゃない?

勝地涼くんのマキューシオも下品でキザでキザで下品、勝地くんだから成り立つスイートバカって感じで、絶妙なキャラが楽しかった。田口トモロヲさんの独特の空気感がそのまんま活かされててよかったし、映像作品ではずっと好きだった安藤玉恵さんをはじめて舞台で観られてよかったし、役者さん全員が個性が活きた状態で板に乗ってる感じがしてよかった。

あとは、今野浩喜さんがお芝居に出てるのはじめて観たんだけど、今回のロミジュリの雰囲気にめちゃくちゃ合っててよかった。お笑いで鍛えられてることと役者としての能力は別物だと思うんだけど、それを差し引いて見ても舞台丈夫な人だなって思うので、もっと舞台やってほしいなって思った!

今回本当に真っ向から「シェイクスピア」なので、そのぶん役者さんを活かすクドカンの演出がくっきり見えた感じがして、それがキャラクターの魅力つまり役者さんの魅力として浮き出て感じるのかも。クドカンだから生まれた三宅ロミオ、愛しいなぁ。

ちなみにロビーには三宅ロミオと葵ジュリエットの銅像があります。

ロミオとジュリエットの像

パンフレットの対談は必読!

翻訳家である松岡和子先生と演出家である宮藤官九郎の対談がプレシャス・オブ・プレシャス…。作家ではなく、あくまで演出家として、シェイクスピアに造詣が深い松岡先生と対談しているクドカン、グッとくる。なんだろう、なんか関係性がいい〜〜!! ふたりの会話の端々から尊みを感じる〜〜!!

松岡先生のシェイクスピアへの向き合い方とか、クドカンの演出をどんなふうに感じているのかとか、松岡先生に直接聞いてみたいって思うようなことがポンポン書かれている。メタルマクベスのパンフレットにもコラムを寄せている松岡先生だけど、こちらはシェイクスピアの解説が中心なのではなくクドカンの芝居の話題をベースに対談してるというのが熱い。そのコンテンツ性が心にしみじみ刺さる…。

メタルマクベスのおかげでマクベス本とマクベス関連論文は少しずつ集めたり読み進めたりしているところなんだけど、今度はロミジュリの参考文献が控えているとは…恐るべしシェイクスピア、はるか遠いルネサンスからもたらされるだだっ広い沼。なんだろう、沼の油田なのかな? 沼田? 沼田なの? シェイクスピアって沼田なのかーーー。へーーーーー。好き…。

もはや松岡先生にファンレターを書きたいと思うほどの素敵対談。もうどう考えても私は松岡先生のファンなんだと思います。パンフレットに掲載されている対談、心当たりのあるおともだち各位にはぜひ読んでほしいと思っています。

ざっくりまとめ

久しぶりのクドカンの新作お芝居なので、ここまで夢中で書いてきてしまいました…。返す返すも、「なるべくまんまやる!」ロミジュリなのに、クドカンが書いたみたいにクドカンのお芝居になってることにビックリしています。これはもう、ホント。しかも向井秀徳のグルーヴに抱かれている。おかしいね?

今のところ、東京公演の最終ブロックをあと1回だけ観に行く予定なんだけど、実はちょっと心が揺れている。キャストの皆さんが自由にのびのび演じてらっしゃるので、台本にあるのかアドリブなのか全然わからない箇所がいくつかあるんですよ。もしあれが日替わりのアドリブだったら、相当えげつないな、ネタどうやって出すんだろ、ってシーンもありまして(笑)。それを確かめに行きたいなぁって思いはじめたらキリがない(笑)。

あと最後に付け加えるとするなら、本作は2時間10分で休憩なしのお芝居なんですけど、体感値的には1幕ぶんです。(この身体が4時間級の芝居に慣らされすぎているのを実感するのでした…)