夜にひしぐは神おろし

お芝居とか映画とか好きなものの話を諸々。自分のためのささやかな記録。

『スリル・ミー』2018年・成河さん福士さんペア版の解釈壁打ちまとめ(ネタばれと妄想の塊)

先日、ネタばれなしのつもりの観劇記録を書いたのですが、もう一度観る前にどうしてもまっさらな状態の解釈壁打ちをまとめておきたくて、これを書いています。

最初に見たのは私役・松下洸平さん、彼役・柿澤勇人さんのペア。話の筋を知るのもこれが最初、まっさらの状態で観たはじめての『スリル・ミー』でした。その翌日、2回目の『スリル・ミー』として私役・成河さん、彼役・福士誠治さんのペアを観たのです。

2回観たうえで理解したのは、ペアごとに違う「私」と「彼」の関係性から来る違いと、回数を重ねたことで変わる見え方の違いの2種類を切り分けて考えたほうがいいということ。そこには繊細なるギャップがあって、考察を重ねる楽しみを味わううえで、一度整理すべきだと思っています。なので、ここでは以下の2点をベースにして語ろうと思います。

  • 話の筋を知ってから観たことで得られた体験
  • 私役・成河さん、彼役・福士誠治さんのペアの表現

ペアごとの「私」と「彼」の表現と関係性が違いすぎて、私にはそれらをごっちゃにして語れるだけの下地がまだないんですよね。それに次回観る予定になっているのも私役・成河さん、彼役・福士誠治さんのペアの回なので、一度そちらに寄せたいというのもあります。

加えて、以前のペアを観たことがないにも関わらず、このペアが異端なのではないかという感触もあって。私が受け取った解釈は『スリル・ミー』のメインストリームではないのかもなぁって思いながら、これを書いています。わかるようなわかんないようなアレですけど。

基本的には自分の勝手な解釈や妄想だけで進む話なので、これが正解だと言ってるわけでもないし、誰かに押し付けたいわけでもない。いつものように淡々と、自分が受け取って自分が味わっている最中の個人的な妄想を記録していきます。解釈という名の妄想です。

無意識に「彼」の目線でゲームを観ていた初回

セリフの行間から漂う1920年アメリカの空気。現代に通じる都市の原型ができはじめた頃、狂騒の時代とも言われる時代の豊かさゆえの退廃。それこそフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』を彷彿とさせるような状況描写と、ニヒリズムに染まるかのような「彼」と「私」の姿に対して、なんとなく納得感を感じる。もちろんその時代を生きたことはないのだけれど、資本主義精神の加速が生んだおぼっちゃんなんだろうなぁって勝手に思っている。

時代の狂乱の中で、自分だけが「彼」にとって価値ある存在なんだと言い、彼のいる方向に向けて世界を閉じているかのような「私」。あの時代の富裕層の傲慢さと、自分たちは特別だという優越感と、長い月日が織り上げた歪んだ関係性。幼馴染と言い切るにはあまりにいびつなその関係。

私の目線は「彼」が一方的に進めるゲームに必死に追い縋る「私」という構図の上に走っていて、つまり自然と「彼」のロジックを追う形になっていた。もっともそのことに気付いたのは2回目を観終わったあとなのだけれど。

私はこのとき、本当にまだなんにもわかっていなかったなぁって、愕然とする。2回目を観ながら、それをヒリヒリするほど体感することになったんだ。あんなヒリヒリすると思わなかったよぉ… とんでもないヒリヒリだった…

「私」の目線で物語を追い直す2回目

私にとって、この2回目の観劇体験が強烈で。2回観ることにこんなに意味がある芝居があるなんて。初回は無意識に「彼」の目線に合わせていた事実を突き付けられたし、2回目はおそろしいほどに「私」自身がくっきりと見えた。芝居中にどんどんつまびらかになる様々なダブルミーニングに震えるしかなかった。

言い換えると、私の目がこの戯曲の構造を考えた人の思う通りに芝居を辿ったということなのかもしれない。芝居を作った人の意図どおりに、おもしろいくらいストレートに視点を誘導されていくスリル。なんなのマジで。

「彼」の計画だと思って観ていたものは、徹頭徹尾「私」の計画で、「私」のスリルで、でもきっとやめることができた計画でもあった。あのときが来るまで、計画は願いと祈りの行為にも通じていた。ああ、本当のゲームチェンジは「彼」が「私」を捨てようとしたときだったんだなぁ。これは想像だけど、きっとあのとき「彼」が「私」と契約者として共にあろうとしたら、引き返せる計画を持っていたのあろうと思う、「私」は。もお〜!! もお〜!! そういうとこだから!! 本当にそういうとこだからね!!

問題は、成河「私」はどこから計画をはじめていたのだろうか、ということ。松下「私」は最初から計画してこうしたという感じではなくて、何がどうなろうと捨て鉢みたいだったのが印象的だった。それが初回だから感じた印象なのか、表現の違いによって感じた印象なのかはわからない。違いがどこから生じるのかという点は今は決めつけないでおきたいのだけど。

ともかく、2回目のときの誘拐計画の会話で成河「私」が言った「親なら息子に金を払う」のセリフ、あそこで背筋がゾクッと粟立った。いつか「彼」が逮捕されたとき、自分も一緒に入れば自分の親がお金を出す必然性ができる、彼の父親がお金を出す可能性は高くないかもしれない、でも自分の親は「私」のためにお金を払うだろう。「共犯」であるがゆえに、2人は一蓮托生になる。そういう意味なんだと悟った。口から何か飛び出ちゃうかと思った。

どうして弟を避けて他のターゲットを選ばせたのかも、やっとわかった気がした。あれはギリギリのスリル、死刑になるかならないかのギリギリのスリルだったのではなかろうか。「彼」が弟を殺したら死刑が確定してしまう。死刑なのか、終身刑として2人で檻の中に入るのか、どちらに転ぶかわからない「私」のスリル。

共犯であることを利用するであろう「私」の計画を悟ったとき、同時に自分自身の存在にも新しい意味が生じて、愕然とした。「共犯」という言葉もダブルミーニングなのだ。結末を知ったうえで2人を目撃している私は、今この瞬間この座席に座っている私自身は、すでに「私」の共犯者だったのだ。共犯のスリル。私自身のスリル・ミー! なんという… なんという衝撃…。あまりの衝撃におもらししたらどうしてくれるんですか…。

「彼」と「私」の描写について

いきなり話は変わるが、2回目を観る前に、知人から福士「彼」のシャツの後ろ身頃が毎回はみ出しているのだという話を聞いた。実際に観たら、やっぱりそれも演出なのではないかと実感したんだけど、もしそうだとしたら、それは成河さん福士さんペアだけの味付けで。なんなんだよ! このペアなんなんだよ!

誘拐した子どもの背中のあざについて話していたとき、「彼」は「背中まで見ない」と言った。「彼」の背中のシャツが出ているのは「彼」が「背中まで見ない」ことの象徴なのではないか、と思わされてしまったんだよね…。「彼」は自分の背中も見ないし、自らの傲慢さから誰に背中を預けているのかを軽視している。そして「私」の計画に落ちてゆく。なんだよ〜、なんだよ〜それ〜!!

他のペアではどういう描写になっているのかわからないけれど、成河さん福士さんのペアのこうした表現がいちいち刺さってしまって、つらい。

そもそも、成河さんが歌いはじめた瞬間から涙が出て止まらないくらい、その表現に心動かされたのだよなぁ。でもその涙はお話の力を感じて出る涙じゃなくて、成河さんの芝居が空気で伝わって流れる涙だった。もうその時点で成河さん福士さんペアの表現や描写にやられてるってことなので、最初から完落ち状態だったのだと思う。特に成河さんファンだったわけでもないのにこんな状態なので、成河さんのお芝居が相当な威力だったんだと思う。

このまま勢いでずるずる話すけど、契約のナイフを使うときの「前にもやったことがある」っていうセリフについてもいろいろ考えた。何をやったことがあるのか。ナイフで切ることか、血でサインをすることか、誰かと契約を交わすことか。

私が想像したのは、たぶん「私」にしたのと同じような契約を、少なくとも2回はしてるんじゃないかってこと。もちろん相手は大なり小なり破滅の道を辿って、だから大学を変えざるを得なくて、世間体を気にするパパはそういうときだけは根回ししてくれて、今に至っているのではないかな。子どもの頃もそうだった。きっと最初にそれをしたのは、「彼」が「私」の前から最初に姿を消したあの夏の日。

もしかしたら昔はとっても弟と仲がよくて、最初の契約者は弟だったのかもしれない。裕福なユダヤ家系の長子として優遇されてた「彼」を父が見放したきっかけ。あの時代のああした家系で長子があれほど疎まれるには理由がありそうな気がして。

最初は弟、圧倒的に自分より弱い存在。次はクラスメイトのような人物。少しずつスリルの質を上げる必要があって、きっと「私」は「彼」のスリルの切り札だった。「彼」は「私」を手札だと思っていたから。手札になんかできていないのに、それに気付くこともなく、むしろ自分が背中を預けていることにも無自覚で。ああ。なんなの「彼」。

それが「彼」の人間としての限界だったのか、それともスリルに溺れた人間の末路だったのか。ああ、どっちだとしてもため息しか出ない。ううう。成河さん福士さんペアの表現、マジでやばくないですか…。

『スリル・ミー』の中のニーチェ

さて今度はニーチェの話。「彼」と「私」の2人は、それぞれニーチェの影響を受けていた。そのことに着目して考えてみたい。まとまる気はしないけど、とりあえず。

最初はそもそも、「私」がどのくらいニーチェに傾倒しているのか疑問だった。「彼」がニーチェにかぶれてたことを知ったうえで、「私」は「私」自身のゲームをしていたように見えていたから。「私」はニーチェにさえ興味がなくて、鳥と「彼」にしか興味がないんじゃないのかなぁ、と思っていた。

もちろん「彼」も別にニーチェに心酔してたわけじゃなくて、ニーチェの言葉の端々を都合よく捉えて屁理屈つけて、自分のしたいようにしていただけなんじゃないかなと思っている。「超人」という言葉の捉え方があまりに恣意的、そうでなければ稚拙な解釈もいいところだし、永劫回帰のロジックから言えば「彼」は全然「超人」なんかじゃないんだよね。「彼」は「超人」に至るために必要だとされる重荷を何ひとつ担いでないどころか、重荷をほぼ「私」に丸投げしてる。それでどうやって「駱駝」に至り、「獅子」に変わるというのか。

「私」と超人思想

そんなことをぐるぐる考えていたら、「私」が最初から超人思想の気配を漂わせていたことに気付いてヒヤッとしたものが顔を撫でたような気がした。「彼」の付き合う相手を空っぽだって言うくだり、あれを多数のライバルに対する嫉妬だと捉えることもできるけれど、セリフの意味だけを捉えてみれば、自分以外の人間が「末人」だと指摘しているようではないか。

弟を避けて他のターゲットを選ばせたときもそうで、「彼」に対して「超人」ではなく「罪人」と呼ばれることになるよ、という「私」なりの符牒もしくは仄めかしだったのではないか。あのとき「彼」はそれに呼応して心を変えたのではないか。もちろん「私」には死刑確定を回避したいという計算もあったのだろうと信じているが。

スリルと祈りの狭間で引き裂かれるような日々を送っていたはずなのに、「私」は超人の証明であり「彼」を手に入れる手段としての計画=「私」のゲームを最後までハンドリングした。それが「私」のスリル。「彼」は超人の犯す殺人は「正義」だと言ったが、ニーチェ的な善悪のコペルニクス的転回によって「彼」と「私」も転回し、関係性がひっくり返る。皮肉にも「正義」をつかさどるはずの弁護士によってもたらされる大いなる矛盾を利用して、「私」はそれを実現した。うわーっ!! うわーっ!!

長い長い「駱駝」の旅を経て、「彼」が「私」を捨てようとしたとき「獅子」が聖なる「No」を突きつけた。留置場の中で「私」が言った「なんでもしてあげるね」の言葉は幼子の「私」による無垢の「Yes」。そして「私」は「超人」へと至り、99年の価値を創造した。愛の幻想に陥っているのではなく、徹底した苦悩に身を置くことで自己超克するための超人証明ゲーム。神なき世界において、自分たちのあるがままの姿を肯定することで自らの存在を生成し、価値を創造する!! ねぇ聞いてますかニーチェさん! この人たちこんなことしてます!!

もしニーチェの思想に従うならば、もうすでに「私」は超然たる自由の持ち主であるはずで、仮釈放時に陪審員から「君は自由だ」と言われたあの言葉は「私」にとってどんな意味となって届いたのだろうか。「自由」という言葉をオウムのように繰り返す成河「私」を観て、私はただただ言葉を失うしかなかった。

「船」の比喩とニーチェ

ここまでに考えてきたことを踏まえると、老いた「私」が契約について語る「はじめは小さないたずらでした」のセリフは、契約を交わした後の話をしているのではなくて、幼い頃に遡って話してるように聞こえてくる。2人で少しずつスリルという種を太らせてきたんだなって感じられるような。自分だけのスリルを見ていた「彼」、2人の間でのスリルを見ていた「私」。

語りの中で唐突に出てきた「船」という比喩に引っかかりを感じていたのだけど、「私」と「彼」の間にある友情、それはつまりニーチェの言葉を借りれば「星の友情」なのではないかなと思い至った。

 かつてわれわれは友人同士であったが、いまや疎遠となってしまった。しかしそれは当然のことであり、われわれはそれを恥ずかしいことのように隠し立てしたり、誤魔化したりしようとは思わない。われわれは、それぞれが自らの目的と航路を持つ二艘の船なのだ。(中略)われわれが疎遠にならなければならないというのは、われわれを覆う掟である。まさにそれによって、われわれは互いにいっそう敬意を払うに足る存在となるべきなのだ! そして、かつてのわれわれの友情の思い出が、いっそう神聖なものとならねばならないのだ! おそらくは、われわれのさまざまな道や目的が、ささやかな行程として含まれるような、目に見えない巨大な曲線と天体軌道が存在する、――そうした思考にまでわれわれは自らを高めよう! しかしそうした崇高な可能性の意味で、友人を超えたものとなるには、われわれの人生はあまりに短く、われわれの視力はあまりに脆弱である。――そうだとしたら、たとえわれわれが地上では互いに敵とならざるをえない場合にも、なお星の友情を信じることにしよう。

河出文庫『喜ばしき知恵』第四書――聖なる一月 二七九 星の友情 より

そんなことはこじつけで、全然関連のないことなのかもしれない。冒頭から繰り返すように、私個人の妄想でしかない。それでもこれに思い至ったとき、成河「私」の表情が頭いっぱいに広がって、私の心をさらに強く打ったのだ。致死量。

「鳥」の比喩とニーチェ

護送車の中で「私」が語る「奇妙な鳥」のくだり。「私」の趣味がバードウォッチングであること、2人が閉じ込められる監獄を鳥籠にたとえたであろうこと、は想像に難くない。でももし「私」がニーチェに傾倒していて、それを意識したセリフだったとしたら、どういう意味が考えられるのか?

 それがわたしのアルファにしてオメガだ。すべて重いものは軽くなり、すべて身体は舞踏者になり、すべて精神は鳥になる。そうだ、これがわたしのアルファにしてオメガだ。
 おお、ならばどうしてわたしが永遠にこがれずにいられようか、指輪のなかの指輪である婚姻のしるしに――回帰の円環に。
 いまだ子どもがほしいと思える女に会ったことがない。だが一人ここに、愛する女がいる。子を生まれたい。わたしはあなたを愛しているのだから。おお、永遠よ。
 あなたを愛しているのだから。おお、永遠よ。

河出書房『ツァラトゥストラかく語りき』七つの封印(あるいは然りとかくあれかしの歌) 六 より

「彼」と「私」が一蓮托生であること、性別を超えてひとつになること、永遠という時間を見つめること。「私」が「彼」と共に生きていくために必要なことが、この引用文の中に詰まっているように思えてしまって、気が遠くなる。

これだってきっとこじつけだ。厨二病極まれり、だと思う。だとしても、ニーチェを背景に敷きながら観る「彼」と「私」はあまりに叙情的でくらくらする。

なぜかループする解釈、まとまらない感想

実はここまでの壁打ちで、何度考えてもループしてしまう部分があって、ちょっと怖いなって思っていることがある。「彼」のことを考えて理屈を積み上げているはずなのに、気が付くと「私」の人物像に戻ってきている、もしくはその逆が起こることがあって。

「彼」のことを考えていると「私」のことになってしまい、それが「彼」の側の論理である理由がなくなる。いつのまにか完全に「私」側の論理になっている自分に気付いて、考察やり直し。そんなことが何度か起こって私は大変混乱していて、もう一度観たらまた何かわかるのかなってドキドキしている。ぜんぜん噛み砕けてないだけなんだろうけど… こわい! なんだかこわい! ってなっている。

「彼」と「私」がひっくり返っちゃったまま考察を続けるなら、「おまえが必要なんだ」の意味も違う意味になっちゃう気がするし、メビウスの輪みたいにひっくり返りながら永遠に考察が終わらない… こわい… 『スリル・ミー』っていうお芝居、これはいったいなんなの? こわい。本当にこわい。

とはいえ、今私がせっせと壁打ちしている成河さん福士さんペア考察の延長線上だと、最初のきっかけはいつも「私」。「私」がはじめた2人のゲーム、その興奮の虜に(無自覚なまま)なってしまったのが「彼」で、「私」は「彼」の優秀なオーディエンスでありスポンサーでありパートナーだった。すべての原資が「私」側にある。そんな感じです。

あー、もう行かなくちゃ。これをえいやっと投稿したあと、3回目の『スリル・ミー』に行ってきます。ギリギリまで考えてみたけど、わからない。何もわからない。数時間後の私はいったい何を思うのか。はぁ。こわい。

おまけ:登場するプロダクト

『スリル・ミー」に登場する1920年代のプロダクトとして気になっているのが、車と眼鏡。なので、そのことだけ最後にメモして終わりたい。

1920年代といえばまだ蒸気自動車の時代で、T型フォードが全盛だよね。エポックメイキングなスポーツカーって1920年代後半に発売されている物が多い気がするから、十中八九フォードなんじゃないかと思うんだけど、ベントレーの線も捨てきれないのかな。

眼鏡のほうは、ロイド眼鏡が流行ってた頃なのかもしれない。願望ベースでいえば、アメリカンオプティカルあたりだとすてき、と思っている。