夜にひしぐは神おろし

お芝居とか映画とか好きなものの話を諸々。自分のためのささやかな記録。

ナゴヤ座遠征のススメ・初心者編

突然ですが、ナゴヤ座をご存知ですか?

「はい」→ すぐ行きましょう。
「いいえ」→ ちょっとこれ読んでってくださいな。

ナゴヤ座の話、させてください!!!

私ですね、去年ナゴヤ座の存在を知ってからというもの、行ってみたくて行ってみたくてしょうがなくてですね、この夏にはじめて機会を得て行ってきたんですよ。

去年のつぶやき

というつぶやきから8 ヶ月、じゃじゃーん!

つまり2019年の目標あっさり達成! やったね!
それでね、わざわざ遠征してまで行く価値あるよ…!! ということが言いたくて、ブログを書いてるんですよ。だから、私、ナゴヤ座についてちょっとでも多くの人に知ってもらえたらうれしいなって… ちょっと遅くなったけど。

さて、これからはじまりまするは、遠征厭わぬお芝居狂いの夜日布が、日本全国の皆々様に、ナゴヤ座遠征をオススメする記事でございます。数年に渡るナゴヤ座の歴史、すべては知らぬ新参者でございますが、おこがましくも憚りながら、ずずいと語らせていただきまする。隅から隅までよろしくお付き合いのほど、おん願い
た! て! ま! つ! り! まする〜!!

 

(※2021年1月12日追記ここから)

最近またちょいちょい見てもらってるみたいなので、ちょっと追記。この内容は2019年11月に書いたものなので、現在の状況とはだいぶ変わっている部分があります。その前提で参考として読んでもらいつつ、最終的は公式な最新情報を参照してもらえるとうれしいです!

あと何はなくともナゴヤ座のYou Tubeチャンネルは登録しておこうね!

(※2021年1月12日追記ここまで)

 

ナゴヤ座ってなぁに?

ナゴヤ座は名古屋の円頓寺商店街にあり、おやつや飲み物を楽しみながら間近で迫力のお芝居を堪能できる場所です。畳に座布団が基本の店内は、まるで江戸時代の歌舞伎小屋が現代によみがえったようで、現代人にとっては逆に新感覚。小さな芝居小屋のようなカフェで、ギュッと濃いエンターテイメントを楽しめるんです!

どんな役者さんがいるの?

ナゴヤ座には、専属の一座がいます。役者さんとして活動する名前とは別に、一座での名前も持っています。詳しくは公式を見に行ってほしいんですけど、座での雰囲気込みの写真を置いておきますね。

ナゴヤ座のみなさん

もうこの時点で「もっともっと公式情報が知りてぇ!」って思った人に、供給の充実した公式のサイトやSNSのリンクを置いておきますね! そちらへ行ったら、もうこれ以上この記事を読まなくてもかまわない! Go Go! Go to 公式ィ!

公式へのリンク

特にYou Tubeは本当に充実しているので、はじめての人にはぜひぜひ観てほしい。観たら行きたくなります。以下はPVみたいな感じの動画なので、まずはこれを観てみて!

お芝居そのものもアップしてくれてたりするんですけど、私はもったいなくてまだ観てない演目もあったりします。もしかしたら再演してくれるかもしれないから、そのときが来たら初見で観たくて…。(でもたぶんそのうち我慢できなくて観ちゃう!)

ナゴヤ座の魅力って?

さてさて、ここからはあくまで初心者ひとりの感覚として読んでもらえるとうれしいです。初心者なので、ベテラン勢とはきっと感覚が違う。観た人の数だけ感覚があるから、最終的に信じられるのは自分の感覚だけ! だからこそ一度行って味わってみてほしい…。

今はとにかく、初心者だからこそ同じ初心者に伝えたい今の気持ちっていうのをね、持ってるわけですよ! だから、ナゴヤ座が気になってる初心者予備軍に、届けこの思い…!

何から話そうかな〜とぐるぐる考えていたのですが、特に以下の4点に分けてまとめておきたいです。

  • 予想を超えてくる期待値
  • 確かな脚本と演出によるお芝居の質
  • 役者さんのフィジカルな存在感
  • ファンとして気持ちよく楽しめるしくみ

予想を超えてくる期待値

まずね、公式のチャンネル群を見てもらったらわかるように、コンテンツをたくさん公開してくれています。私がはじめて座を知ったのも、Twitterでフォロワーさんが流してくれているのを見たからなんです。

はじめて遊びに行く前は時々それを眺めていて、はちゃめちゃに期待値を上げまくっていたんですけど、散々期待値を上げまくっていたにも関わらず、実際に行ったらめっちゃ楽しかったんですよね! すごくないですか!?

事前にめっちゃ予習したい人もいれば、前情報なしで飛び込みたいって人もいますよね。前情報なしが好きな人については、行くだけでわくわくサプライズが確約されているので、無問題! 安心して体感しに行って!

いろいろ予習したい人にとっては、予習できるコンテンツがいっぱいあって、自分なりの期待値を作りやすいナゴヤ座、かなりいい感じだと思います。うまく言えないけど、予習したときの期待値は、たぶんちゃんと超えてくれます!

コンテンツが溢れる世の中で、ピュアに期待値を超えてくるのって、単純にすごい。どう楽しかったの? の答えは、続く章で。

確かな脚本と演出によるお芝居の質

とにかく普通にお芝居がおもしろい。まずは何よりも脚本がしっかりしている、というのが大きい気がしています。座としての箱は小さくても、脚本と演出はめちゃくちゃに密度が高い。

私けっこう脚本と演出にうるさいオタクだと思うんですけど、座という場所・箱と役者さんのポテンシャルと脚本・演出のバランスは奇跡的なんじゃないかな〜って思ってるんですよ。もちろん、大きな劇場の派手なパフォーマンスと比べられるものではありません。要はバランスです。

脚本はほとんど右来左往さんという劇作家の先生が書いてらっしゃるそうなのですが、右来先生の書く本はプロットが骨太で、わかりやすい見せ場と起承転結があるから安心して観ていられる。

その脚本の持つ太いアクセントがあるから、人物の心理描写や状況の因果みたいなものを、役者さんの動きや表情などで繊細に魅せてくる演出が光る。これってどこまでがト書きに入っていて、どこまでが演出での指導なんだろう…? って思わされるシーンがたくさんあって、いくらでも深堀りして観たくなっちゃうんですよね。

もちろん古典を元にしている演目なんかだと原案があってのプロットという面はあると思いますし、役者さん個人のポテンシャルあっての表現っていう面もあると思います。しかし、台無しにされる原案だってたくさんあるわけで…。だからだから、原案があろうが完全オリジナルだろうが、整合性の取れた気持ちのよい脚本を感じられるって、とってもうれしいことですよね…。

どうでもいいけど、私まだ1演目3公演しか観てないのに、ここまで脚本と演出を信頼するってすごくないですか? 自分でもびっくりする。おまえは右来先生の何を知っているんだ? と自分を問い詰めたい気持ちです。

役者さんのフィジカルな存在感

続いて言わなくちゃいけないことは、舞台との距離が近いために感じる圧倒的な存在感がやばいってこと。近いんですよ本当に。近ッ! 近ッッッ!! ってなる。なんなら最初引く。引いてる自分に気付く。自然な風圧を感じる距離で人が動いてる。近い。

近いだけならなんでもいいだろって話なんですけど、それがそうでもない。前の章でもちょっと触れましたが、役者さん=座員さんのお芝居に芯が通っているんです。お話を伺っていると(後述しますけど、役者さんから直接お話を伺う機会、つまり接触イベもふんだんに用意されています)シナリオや役柄に対する向き合い方がめちゃくちゃ誠実。

第ゼロ幕、ちょい見せナゴヤ歌舞伎を演じる座員さんたち

そのように誠実に解釈された芝居表現が、呼吸音が聞こえる距離で発散されてるんですよ。これってとてもすごいことだと思っていて。一般的な価値観だと「箱が小さい=芝居も小粒」っていう向きがあると思うんです。でもナゴヤ座はちょっと違う。だから密度がすごい。

逆に言うと、その部分のクオリティーを保っていくことが難しくなったとき、ファンは離れるのだろうなというのが明白。きっと座員さんもそれをわかっているから、緊張感ある姿勢を保っていられるのかなって思う。まぁ、それ以前に、お芝居が大好きだから誠実でいられるっていうのが伝わってくるので、そこも推せるポイント。

芝居としての表現だけでなくアクションもすごい、というのがポイント。ここでさっきも書いた座という場所・箱と役者さんのポテンシャルと脚本・演出のバランスがすごいって話にいったん戻るんですけど、もうホント、それ。

人間のエネルギーがそこにある以上、フィジカルな迫力っていうのは、やっぱり抗えない魅力のひとつだと思いませんか…。息遣いひとつ、眉の動きひとつ、すべてが確かな肉感とともにそこにある。この迫力はすごいですよ。これが俺たちのリヤルだぜ。

そうだな〜、たとえば、自分ちのリビングでこの人達が大暴れしてるのを想像してみてください。そのくらいのイメージでだいたい合ってる。

ファンとして気持ちよく楽しめるしくみ

あと、お芝居のおもしろさはもちろんなんですけど、観客が楽しむためのシステムがユニークですごくよい。加えて、ナゴヤ座を続けていくための工夫みたいなもの(金銭・収入面も含めて)も随所にあって、しかもそれがファンにとって気持ちのよいしくみだったりする。座としてのエコシステムがしっかりしているから、安心して課金ができます!

とにかく、お芝居がきちんとおもしろいから、それを支えるいろいろなシステムが強力に生きてくるっていうのはあると思うから、そこは本当大事なところ。肝心のお芝居がおもしろくなかったら、何をどう工夫しようがスカスカですもんね。芯がみっちりしてることに関しては太鼓判です。大好き。

ナゴヤ座には、安心して応援できる心強さみたいなものがね、あるんですよ。これは強い。だって、また行きたいと思うし、遠くにいても応援したいと思うもん。

基本の楽しみ方ポイント

ここまでは魅力について語ってきましたが、個人的におもしろいと思う楽しみ方ポイントを紹介したいと思います。ざっくり、以下の5つのポイントについて語ります。

  • 第ゼロ幕(ちょい見せナゴヤ歌舞伎)
  • オヒネリシステム
  • オオムコウシステム
  • 上演後の撮影タイム
  • 初回だけもらえるフォトカード

もちろん公式にも情報があるので、すぐにそっちに飛んでもらってもいいんだぜ!

第ゼロ幕(ちょい見せナゴヤ歌舞伎)

ナゴヤ座は2019年11月現在、金土日に昼公演・夜公演を行うスタイルなのですが、その各公演の前に「第ゼロ幕」というのがあるのです。それがすごくよい。ナゴヤ座の建物は商店街の中にあるのですが、ナゴヤ座の出入口付近、つまり外で導入みたいなお芝居をやってくれるのです。

第ゼロ幕、ちょい見せナゴヤ歌舞伎がはじまる前の口上

ナゴヤ座では同じ演目でも毎回配役がシャッフルされるのですが、昼のちょい見せのときにはじめてその日の配役がわかるシステムにもなっています。狭い階段から役者さんたちが駆け下りてくるワクワク感がまたよいのです。

もちろん観劇予定の人だけでなく、商店街を通る人みんなが観られるものなので、「へぇこういうのあるんだ」とか「知らなかったけど来てみたいね」みたいな声も聞こえます。めっちゃいい。

第ゼロ幕、ちょい見せナゴヤ歌舞伎を演じる座員さんたち

ナゴヤ座では写真撮影タイムがいくつか設けられていて、第ゼロ幕のちょい見せナゴヤ歌舞伎も撮影OKな時間になっています。だからこんなにふんだんに写真を使ってブログを書くことができる… PRにもつながるエコシステム!!

オヒネリシステム

みんな大好きオヒネリシステム! これは本当に楽しいので、はじめての人でもノリノリで遊んでほしい! 座席にはあらかじめ白いオヒネリが3つ置いてあって、お客さんは全員オヒネリシステムの参加者になれるっていうのが強い。

客席から舞台に向かって、投げる! 昔からある日本にある「おひねり」の文化を、ナゴヤ座に今一度、復活させてみようというシステムです。

本来は小銭を紙で包んで作っていましたが、ナゴヤ座では人に当たっても痛くないモノを入れたナゴヤ座オリジナルオヒネリを、配布。

観劇方法-カブキカフェ ナゴヤ座-KABUKI CAFE NAGOYA za[名古屋_円頓寺商店街]

お芝居がはじまる前にはオヒネリについて説明してくれるし、投げる練習までさせてくれるという安心設計。お芝居を見ていて「ウヒョー」みたいなテンションになったら意思表示ができるって、気持ちいい! みんなで一体感が持てるのも新鮮!

実は白いオヒネリに加えて黄色いオヒネリもあるんですけど、それは後の章で。

ナゴヤ座オリジナのル痛くないオヒネリ

オオムコウシステム

大向うって聞いたことありますか? ざっくり言うと歌舞伎でかかる掛け声のことなんですけど、ナゴヤ座にも掛け声があるんです。それって何? と思った人が大向うをウィキペディアで見ると「なんだかややこしそう…」ってなりますよね。

でも、ナゴヤ座でのオオムコウは簡単安心超シンプル!

役者が登場した時、見得を切った時。そんなときには、「ぃよっ!」とか、「待ってましたっ!」とか、「ナゴヤ座っ!」とか舞台に向かってぜひ声をかけてあげてください。

観劇方法-カブキカフェ ナゴヤ座-KABUKI CAFE NAGOYA za[名古屋_円頓寺商店街]

オヒネリ同様オオムコウの掛け方も、お芝居の前に教えてくれます。声を出すのはちょっと抵抗が… という人も、他の慣れてるお客さんの掛け声を聞くだけでも楽しい。あんまり深く考えず、多少ルールのある応援上映みたいなものだと考えればOKなんじゃないかな〜!

私がはじめて観に行ったときは、自由に声を出すとお芝居を壊しちゃいそうで怖かったので、一体感を大事にみんなの真似をして楽しませてもらいました。

上演後の撮影タイム

第ゼロ幕のちょい見せナゴヤ歌舞伎でも書きましたが、ナゴヤ座には撮影OKのタイミングがいくつかあります。上演後の撮影タイムもそうです。

もうこれについては説明は不要でしょ? 以下のような写真を撮ることができます! お芝居を見た後に、役の衣装のまま写真を撮っていい! サンキューフォトセッション!

上演後の撮影タイム

目線も左右センター全部に振ってくれます。

上演後の撮影タイム

キリッとした姿だけでなく、ふにゃっとした瞬間も撮れる!

上演後の撮影タイム

写真撮れるの、楽しい。この章については以上です。

初回だけもらえるフォトカード

前の章で、「役者さんから直接お話を伺う機会、つまり接触イベもふんだんに用意されています」と書きました。そうです。はじめての人にも初回ボーナスみたいなものがあるんです。

それが、初回だけもらえるフォトカード。上演後に行われるサイン会で、好きな役者さんをひとり選んでサインしてもらうことができるんです。サインしてもらう際には、役者さんとおしゃべりもできちゃう… それが約束された初回ボーナス! 手厚い!

接触なんて恐れ多い… という人は、フォトカードを大事に持って帰ればそれでよし。会うも会わぬも、個人の好み次第。でもサインを求められて感想を聞けたら、座員さんもうれしいと思うので、積極的に行くことをオススメしたい!

ディープにハマれる推しポイント

  • 確実に買える月間パスポート
  • 座員さん狙い撃ちオヒネリガチャ
  • ていねいすぎるサイン対応
  • 円頓寺商店街練り歩き
  • 何度でも通える配役シャッフル

確実に買える月間パスポート

初回のフォトカードが初回限定ボーナスだとすると、月間パスポートは確実に接触イベント権を手に入れられる約束されたログインボーナスみたいなものです。

月間パスポートは課金しないと手に入らないものではあるけれど、そもそもチケット代は絶対に払うものだし、3回以上観るならパスポートを買ったほうがお得! それ以上は行けば行くほどお得!

お得なうえにサインとおしゃべりの権利がもらえるとか、本当に親切設計。通えるなら、そりゃ毎月買っちゃいますわ。

座員さん狙い撃ちオヒネリガチャ

オヒネリシステムの章で、初期設定の白いオヒネリとは別に黄色いオヒネリがあるって書きましたよね。それがリアル課金型オヒネリです。

ナゴヤ座には座員さんの数だけガチャガチャのマシーンが置いてあるんですけど、それはつまり、100%推しの何かが出てくる約束されたガチャであるということを意味する…! ねぇ100%だよ!?

そしてガチャの売上は推しにダイレクト課金されるシステムになっているらしい。このあたりはもうなんていうかそう信じさせてもらえるだけで、それだけで全然いいんですけど、そういうことなんですよ。(中にはなんか税金的なアレでこういう話題が表に出ると嫌がる団体さんもいると思うんだけど、ナゴヤ座さんは違うと信じて書いてます!)

集めてうれしいカンバッヂ

ちょっと話が逸れましたが、そのガチャガチャに黄色いオヒネリが一緒に入っていて、白いオヒネリと同じように投げて遊べるわけです。無駄がない。推しグッズが手に入って、遊べるオヒネリまでもらえちゃう。無駄がない。

当たりも入っているので、当たるとフォトカードがもらえるよ。フォトカードをもらったら、フォトカードにサインがもらえるよ。初回ログイン、月パス購入時、そしてガチャで当たりを引く。この3つがサイン対応の列に並べる条件になります。

ていねいすぎるサイン対応

そのサイン対応が! すごく! ていねいなの!

なんか、これ以上はもう、言わなくてもいいかなって、そんなふうに思っています。行って、観て、確かめて。震えるから。その誠実な対応に、震えるから。

私ね、軽薄な空気とかお客を舐めきってる気配が見える接触イベントを憎んでさえいるオタクなんですよ。しかしナゴヤ座は違う。芝居に対する姿勢とか、それに対する観客の感想を真摯に受け止める態度とか、そういうのがね、もうなんかあれなの、急に語彙が死にはじめた。すごいの。真面目だし、楽しそうなの。なんか、えらいの。もう語彙がむり。

円頓寺商店街練り歩き

建物の外で演じるちょい見せナゴヤ歌舞伎のことも書きましたが、夜の部がはじまる前には商店街を練り歩くイベントが発生します。練り歩くだけ? って思うかもしれないけど、その場にいると無駄にテンションが上がるのですよ。

円頓寺商店街練り歩き

しかも衣装のまま歩く。商店街の皆さんもめちゃくちゃ温かく見守ってる。うわ〜愛されてんだなぁって、グッと来る。このね、地域に愛されてる感がね、特別なんですよ。それがなかったら、こんなにいいなって思ってないかもしれないくらい。

円頓寺商店街練り歩き

座の前まで戻ったら、すぐちょい見せがはじまります。お練りとちょい見せだけを見物に顔を出す地元の方もいるらしいです。そりゃ顔出したくなるわ… 仕事ちょっと抜けて観に行きたくなるわ…。

何度でも通える配役シャッフル

撮影タイムの写真でお気付きの方もいるかと思います。同じ人が同じ衣装を着ているわけではないということを。そうなんです。配役がシャッフルされます。それがね、いいの。

今日はどんな組み合わせかな〜とか、当日になるまでわからないの。誰が出演してるかは事前にちゃんと発表されてるんですけど、配役だけは当日にならないとわからない。このわくわく感が楽しいんです。

それと、同じ役を別の人が演じることによって生まれる役への解釈の違いとか、役同士の関係性の違いとか、そのちょっとした違いを味わうのがハッチャメチャにうれしいんですよ〜〜〜!! 

遠征慣れしてなくても大丈夫!

ねぇ、もうここまで読んでくれた方は、気になってくれてますよね? 行きたくなってくれてますよね? わかる〜〜私もなってる。

でも、「遠征ってしたことないな?」「知らない街で迷わないか不安だな?」って心配している人もいますよね…。わかる。でも大丈夫!

そこは安心親切設計、名古屋駅からナゴヤ座までの道案内ナゴヤ座公式You Tubeチャンネルから提供されています!

ホント、このツイートで言ってる通りの気持ちです。

さぁ名古屋以外の民よ! 特に東京の民よ!
ナゴヤ座に遠征しよう〜!!

なかなか頻繁には通えないけれど、気持ちの上ではずっと応援していたい。そんな存在が増えるって、うれしくないですか? 私はうれしい。エンタメは東京に集中しがちだけど、東京だけじゃないんだぞっていうのをしっかりと見せてくれる場所があることが、本当にうれしい。

現場からは以上です。ご清聴ありがとうございました。

髑髏城の七人 Season月 <上弦の月> 私的卒業論文『月髑髏・上弦とはなんだったのか 〜観劇者の解釈と情動の可視化』

髑髏城の七人 Season月 <上弦の月>のゲキシネが絶賛上映中ですね。8/16に名古屋で公開がはじまり、9月には順次全国で展開されちゃいますね。胸がいっぱいですね。

少しでも参考になればと、上弦ゲキシネの編集に感謝する7つの理由をまとめてみましたが、まったくもってまとめ足りません。だって感謝しかないのだもの。

まだ『髑髏城の七人』そのものを観ていない人には、なんのネタバレもなくまっさらな気持ちで観てほしい。もし他のシーズンを履修済みなのであれば、その違いを味わいながら観てほしい。

そしてもし上弦をすでに観ていて、
上弦という深い沼に片脚を踏み入れてしまったならば!!
ちょっとでも上弦の味のする何かをおくちに入れたいならば!!

ちょっと私の卒論でも読んでってくださいな。お役に立てるかはわかりませんけれども、かつて、いや現在進行系で上弦に狂わされた人間の営みが、あるんですここには。ゆっくりしていきなよ。

卒論とはなんなのか

人生を狂わされた人間が、そのコンテンツを見送るときに書くやたら重たい文章、それが卒論。ステアラを回り終えた上弦に対しても、たくさんの人が卒論を書きました。かく言う私もそのひとりです。

卒論卒論と言いますが、思い余って本当に論文を書きました。多次元尺度構成法と共起ネットワークというものを使って観劇メモを解析するというスタイルの論文なんですけど、あくまで論文のパロディなので本物の論文ではありません。

自分で書いておきながら、いまだに上弦の味がするガムとして、定期的に読み返しては噛み締め続けています。WOWOWならびにゲキシネとして全国に上弦が解き放たれた今、このガムを噛んでうれしい気持ちになる人がひとりでもいるかもしれないならば、公開しちゃえ。というわけで公開します。

誰にでもおいしいガムではないかもしれないので、求める味じゃなければすぐ吐き出してください。そのあたり、誰にでも愛される味だとは思っておりませんので、どうぞご自身の判断でお願いします。

PDFだと読みづらいと思うので、謝辞の部分だけ抜き出しておこうと思います。なんなら論文の本体は謝辞なので。解析部分とか読まなくていいので。

ここから先はネタバレに相当する記述も多分に含んでおりますので、ネタバレを踏みたくない方はお引き返しください。

卒論 7章 謝辞 より引用

以下、PDFからの引用です。引用しつつ、自分の中で特に情緒がおかしくなる部分を強調表示しています。強調表示をするにあたり、泣きながら読み返しました。燃費の良い自給自足。

7.1 上弦聖子太夫

 謝辞を書くぞという覚悟を決めたとき、気が付いたら自然と太夫のことから書きはじまっていた。髑髏城について語るとき、今まで太夫のことが先に立つことはなかった。しかし、月髑髏・上弦の卒論謝辞を書く段になり、上弦聖子太夫は誰よりも大きい存在感で自分の胸の中にあるのだと思い知らされた。

 上弦聖子太夫は、全髑髏城の中でもひときわ大きな重責を担って生きていたように見えた。歴代髑髏城の太夫は娘たちの前に立って引っ張っていくイメージだったのに対し、上弦聖子太夫はまるっと大きく抱え込むように、やわらかく包み込むように、娘たちを注意深くバックアップするようにして守ってきたのではないかなと感じる。

 肩寄せ合って一緒に生きているように見えて、その実、上弦聖子太夫はひとりだけ輪の外側にいる。例外があるとしたら、おでん。おでんは上弦聖子太夫と無界ガールズとの間に立ち、数少ない大人として役割分担しながら、太夫と一緒に歩んできたのだろう。つまり「保護者として娘たちを守ってきた女性」というのが、私の中の上弦聖子太夫イメージだ。いつか娘たちが自分のところから巣立つ日が来ればいい。娘たちにとっての大切な誰かに娘たち全員を手渡して、はじめて務めを終えられる。そんなふうに、娘たちを預かっている気持ちでいたんじゃないかな。

 そもそも太夫は、捨天蘭とは違う角度から「この世の地獄」を見てきた人だ。捨之介が捨てられないものの重みを、誰よりも深く理解できる唯一の人物でもある。捨てられないものの重みを知っているだけでなく、捨てたうえで新しく拾ったり抱えたりすることを、あえて選んできた人なのだ。新しく拾ったもののひとつである蘭兵衛が「この世の地獄」を作る側にいたであろうことも、どこかで薄々勘付いていたはずだ。それでも蘭兵衛として生まれ変わったように見えたその男を、まるっと包み込んで支えてきた。そんな上弦聖子太夫の生き様は潔く、尊い。

 自分が守ってきたはずの娘たちが、逆に自分を守って目の前で死んでゆくのを、上弦聖子太夫はどんな気持ちで見つめたのだろう。きっと自分が死ぬよりつらかったはずだ。身を引き裂かれる思いで見つめたはずだ。無界襲撃の終盤に兵庫が割って入らなければ、蘭丸にそのまま殺されることを選んでいたであろうことも、想像に難くない。立ち上がれないくらいに折れた心で、蘭兵衛に殺されにいこうとさえしたのだと思う。

けれど、同じように仲間の死に打ちのめされている兵庫を前に、上弦聖子太夫は立ち上がる。震える膝に何度も拳を打ち込み、自分ひとりの力で立ち上がるのだ。そして自分を生かしてくれた若者たちの生と死すべてに報いるために、その脚で走り出す。あの一連のシーンを思い返すだけで、冗談でしょってほどに泣ける。

 そして娘たちと同じくらい愛したはずの蘭兵衛を、新しく拾ったものとして慈しんできたはずの蘭兵衛を、娘たちの仇として殺すことになる。しかも蘭兵衛自身に請われて。よくよく考えると意味がわからないよね。太夫が撃たなくても蘭兵衛のあの傷ではどのみち死んだであろうに、上弦聖子太夫は蘭兵衛に精いっぱいのとどめを刺す。すべてを背負って、さらにまた背負う覚悟で。蘭兵衛はずるい。だって、蘭兵衛が過去を洗い流せなかったことで、太夫もそれを流せなくなるんだよ。本当は蘭兵衛の手を洗い流してあげたかった太夫なのに、最も望まない形で蘭兵衛の因果を消さなくてはならなかった。

 残されたものはつらい。それでも彼女は背負う。残された者の重みをこれでもかと背負わされるのが上弦聖子太夫。彼女がただ生きているだけで、一個人を超越し、菩薩のような存在になり得る。彼女は他化自在天のある欲界よりも上位の存在だと言っていい。捨之介は天は高いと言うけれど、上弦聖子太夫は天にも届かぬ天魔王などよりもずっとずっと高いところにいるのだ。だけど本当は、そんなところにいなくていい。そんなわけのわからないところにいないで、地に足を着けて、あれがしたい、これがほしいってわがままを言っていい。だからこそ、最後に兵庫が言ってくれる「一緒に生きる」「前から受け止める」の意味がずしんと来る。救われるというのは、ああいうことを言うのだと感じる。人は地面に足が着いてるうちに幸せになるべきなのだ。

 上弦聖子太夫は、城から抜け出す際に、蘭兵衛の刀を持ってゆく。だけど太夫は、最後までその刀で人を斬らない。兵庫と仁平と背中を預けあいながら、誰も斬らずに自分が生きるためだけに刀を使っている。同じ刀でも、殺すために使うこともできれば生きるために使うこともできる。人も同じように、何度でもやり直せるはずなんだって、太夫は蘭兵衛に言い続けてきたんだと思う。同じように思ってくれる兵庫と仁平がそばにいてくれてよかったね。みんなで城を抜け出せてよかったね。

 最後、兵庫と一緒に去るシーン、そのときはもう、蘭兵衛の刀は持っていないんだよね。要らないものはお城に置いてきたのだろう。背負っていかなくちゃいけないものはたくさんあるけれど、要らないものはちゃんと置いてきた。そんなものは要らないのだと言える場所まで来られたのは、蘭兵衛の刀があったからなのだと、私はそう思ってあげたい。昔の縁はどんな縁でも今の自分を作るために必要な縁だった。でも、昔大事にしていたものでも、未来に持っていけないものは三途の河に捨之介していいんだよね。今大事なものを守るために、捨てなくちゃいけないのだ。

 上弦聖子太夫は最後まで、無界のみんなの保護者だった。あたたかくて、気丈で、自分の気持ちを殺しながらも周りにそれを悟らせない、そんな上弦聖子太夫が大好きだった。みんなの中心に立つのではなく寄り添う在りかたを選んでいるように見えたのがすごく好きだった。幕は下りてしまったから、それまでの役割なんて三途の河に捨之介して、物語の外側で誰よりも誰よりも誰よりも幸せになってほしい。ありがとうございました。本当にありがとうございました。

7.2 上弦三浦蘭兵衛

 とにかく上弦三浦蘭兵衛は、最初から最後まで腹の立つ男だった。いや、これは悪い意味ではなく、蘭兵衛というキャラクターを三浦翔平くんという役者が120%表現した結果だと思っているので、むしろ褒めている。これは謝辞なのである。蘭兵衛に腹が立てば立つほど、上弦三浦蘭兵衛が気になってしまう。好きになってしまう。夢中になってしまう。ままならなさに心を痛めることしかできなくなる。そして腹が立つほど顔がいい。

 「顔がいい」というのを、オタクの符牒的な意味でありがちに捉えてもらっては具合が悪い。上弦三浦蘭兵衛の顔のよさを舐めちゃいけない。上弦三浦蘭兵衛というインターフェイス上で、再現性の極めて高い「顔がいい」という現象が起こっていること、それは事件なのだ。上弦三浦蘭兵衛を追うということは、「顔がいい」という現象の本当の意味を理解する瞬間に都度都度立ち会うということだし、ジャンルで言えば量子力学に近い。上弦三浦蘭兵衛は量子力学的な事件だったんだと思う。

 なんかもう、唐突にみうらんについてこれ以上書きたくなくなってきた。だってさぁ、上弦三浦蘭兵衛ってめちゃくちゃ特筆すべきことがありすぎてさ、すべてを書き切れる気がしなくない? いや、他のキャラもそうなんだけど、でもみうらんは…… いや、頑張る。書く。まだ「顔がいい」しか言ってないから。

 インターフェイスではなく人物像に目を向けると、蘭兵衛は髑髏城キャラの中で、ただひとりだけ力技で呪縛から解放される人物なのだと解釈している。殿に愛されるだけ愛され、天魔王に用意された花道を(偽物の花道だとしても)堂々と歩き、そのど真ん中で小姓としての本懐を遂げ、ついには極楽太夫に引導を渡してもらう。こんな至れり尽くせりに舗装されたイージーウェイを爆走するだけの男、どうしてこの世の中に存在するんですか? 呪いなんですか? 祝福なんですか?

 特に上弦に限った蘭兵衛の人物像として、どうしても言っておきたいことは、その次男性である。今までの歴代蘭兵衛は、よくも悪くもどうしても長男的に見えていた。捨天蘭の関係性を描くために意図的に長男設定になってたシーズンもあるくらいだし。あいつ本当は三男なのに。次男だし三男だし。ややこしい。

 でも、上弦三浦蘭兵衛は、最初から次男に見えたんだよね。家督は継がなくていいし、暴れ馬みたいな上の子見て育ってるからとにかく要領いいし、小姓に出された先では信長というファビュラス殿に恵まれるし、余計なこと考えずに殿にだけ没頭してればラブアンドピースだし、いいな次男って! 戦乱の世なのにラブアンドピースってどういうことだよ、とは思いました。雰囲気です。

 かと思えば、肝心なところで歯切れが悪いし、世話になった恩も仇で返すタイプだし、どっか誘い受けみたいなとこあるし、なんかもう、なんかもうなんなんだよおまえ!! めんどくさいかよ!!

 ちなみに私の中では「上質のナチュラルボーンダメ男は次男に限る」という、お外では言えない偏見があるんですけど、上弦三浦蘭兵衛は完全にそのタイプ。ダメって言うのは、能力的に劣るとかそういう意味ではないのだ。むしろナチュラルボーンで要領がよすぎて、気がつくと他人がイージーウェイを舗装してくれちゃってるというオートマチックな人生を送るタイプ。

 持って生まれた子特有の無頓着さ、残酷さ、圧倒的な次男性。それはきっと、天魔王にとって焦がれながら手に入れられなかったものなのではないだろうか。上弦三浦蘭兵衛のそんなところを殿は愛した。みうらんは持って生まれた子だからこそ、いろいろなことがわからないままで生きてきたんじゃないかな。太夫の気持ちだって、きっと本当はわかっちゃいなかった。だから「洗えば落ちる」って両手を握られて諭されたときも、なんだかんだの生返事なのだ。

 もしこういうタイプとうっかり交際などしはじめちゃったら、ついつい自らATMになってしまいがち。ほら、天魔王だってめっちゃお着替え用意してあげてたでしょ。あれだよ、あれ。お願いしなくても用意されてんだよ、そういうものたちが。万事そういう感じ。なんの話だっけ。そうそう、とにかく次男性には気をつけろ。どんなオタクの沼より後腐れがある沼だかんね。

 ……でもねぇ、要領がいいくせに、不器用な男なんですよ、上弦三浦蘭兵衛は。ピュアっていうか、一途っていうか、絶望的に育ちがいいんだなぁ。さすが森家の次男(三男)。そのせいか、敷いてもらったイージー舗道はなんだかんだ言いつつ最後まで走らないといけないと思い込んでるんですよ。いつだって降りられたのに。いつだって自分の意思でそのイージーハイウェイを降りて、国道沿いのファミレスで捨天と待ち合わせてドリンクバーでジュースミックス作ってウェイできたはずなんですよ。でもその選択肢ははじめから上弦三浦蘭兵衛の中にはない。ここが終点やでって言ってくれるのは、ファビュラス殿以外にいないから。殿の背中を追いかけるしかできない男だから。だめ、そっちに行っちゃいけないの。そっちに行ったらいけない、そっちにドリンクバーはないのみうらん!!!

 外道のくせに、あいつ外道なのに、哀しみをはらんだ切ない人物に見えて同情を誘われてしまうのは、上弦三浦蘭兵衛自身がそんな不器用な自分をどこかで理解してしまっているからなんだと思う。それはきっと無界での月日が自分を客観視させたからなんじゃないかな。とはいえ、それもうっすらとした自己認知でしかなくて、やっぱり過去に引き戻されてしまうんだけど。

 ところで、花鳥風月から「三過ぎる」口上が蘭兵衛登場シーンに来るようになった(例外は風)けど、それって実は蘭兵衛のキャラクターを語るに小さくない変更だと思っていて。私の中で花鳥月蘭兵衛は、天魔王に出会う前から無界での暮らしを自嘲し続けている蘭兵衛なんだよね。天魔王に会った後に「三過ぎる」が来るのとは意味が違う。花鳥月蘭兵衛は、即落ちになんら不思議のない蘭兵衛たちなのだ。だから荒野で再会したときに即落ちするんだよ、みうらん。

 まぁとにかくいろいろあって、死に場所を探す捨天蘭の3人の中で、あの頃のままのセーブデータを持っていたのは蘭兵衛だけで、天魔王も捨之介もそれぞれの形でゲームデータが上書きされていた。無界で甘やかされて生きたおかげで、データ領域にまったく手をつけずに生きてくることができたのだ。それは幸せなことだったし、そうしていつかセーブデータがどこにあるのかわからなくなるまで無界で生きられたらよかったのだ。けれど天魔王と出会った上弦三浦蘭兵衛は、出会ってしまったがゆえに「やり直しますか? ▶︎はい」のその先を、高い精度で再現してしまったのだ。

 無界襲撃時、ねばる荒武者隊に向かって「くだらぬ意地を」と言うシーン、あれってどこかで自分の姿と重なるんだと思う、きっと。そう考えると、ああ言いながらもきっちり荒武者隊を切って捨てる行動は上弦三浦蘭兵衛なりの筋で、荒武者隊の侍として死を完成させたのは上弦三浦蘭兵衛なりの優しさなのだと考えることもでき……ないこともね、無理矢理ね、うん、ないとはね、思うんだけどね、そんなふうに考えちゃダメだなという気持ちもある。

 こと上弦三浦蘭兵衛に関しては、そんなふうに深読みしすぎて、過保護に甘やかしたくなってしまう。ねー、よかれと思って殺したんだよねー、わかるよみうらーんって、庇ってあげたくなってしまう。なぜかというと、上弦三浦蘭兵衛は被害者ぶる行動を取っていないと感じるから。でも、あいつ外道なんだから、庇っちゃダメ。自分がやったんでしょ!って説教してやるくらいでちょうどいい。蘭兵衛は外道。これはテストに出てくれないと困る。

 2/11の異常に闇の濃い蘭兵衛、2/16の心震えるような蘭兵衛を経て、2/18マチネで思ってしまったことは、実はみうらんは太夫とふたりで付けたはずの極楽太夫という名前に全然思い入れなんて持ってないんじゃないの? という疑い。私はこの時期の上弦三浦蘭兵衛の無界襲撃の動機が全然理解できなくなってしまっていて、もしかしたら太夫に「極楽なんてどうかしらね」って言ったときに「そうだな」って、あの例の上の空の感じで、何にもわかってないくせに次男面して答えたんじゃないの? いいとか悪いとか思う前に、そんなに関心がなかったんじゃないの? などという疑念がこんこんと湧き上がってきたのだ。だから無界なんてどうだっていいんじゃないの? みうらんのバカ!!

 ……しかし、そこへ来ての急転直下。2/18ソワレでの上弦三浦蘭兵衛。蘭兵衛としての月日に思いを残しながら、同時にそんな日々を過ごした自分を恥じているような様子を見せたみうらん。あーっ! ここでそんな思いを乗せてくるなんて、あーっ! あーっ! ……からの千穐楽!! あの日の上弦三浦蘭兵衛の仕上がり具合に、私はただただ感無量だった。無界でのリラックスしたみうらん。捨之介が天魔王を止めると言ったときに見せた、繊細で傷付いたような表情。きっといろいろな想いや記憶が頭の中をよぎっていったんだろうなと思わせる動揺。赤蔵を斬るときに見せた苦悩の表情。

 何度も言うように蘭兵衛という男はひどいし自分勝手だけれど、最後まで自分勝手を通すことが翻って結果的な優しさを生み出しているんじゃないかと思わされてしまうほど、千穐楽の上弦三浦蘭兵衛は仕上がっていた。何をもってして仕上がりと呼ぶのかはわからないけれど、三浦翔平くんという役者が見せてくれる最高の蘭兵衛がそこにあったということなんだと思う。最後の1週間で三浦翔平くんが示してきた蘭兵衛の「構造」は凄まじかった。あんなにエモい構造化が成功していること、それがすなわち仕上がっているということなのだろうな、となんとなく思う。

 ただ、上弦三浦蘭兵衛は、死んだあとに殿のところにまっすぐは行けてないんじゃないかなって気がしている。なぜなら、みうらんは殿が本当に望んだようには生きなかったから。殿はきっと「命を粗末にせず生きよと言ったろうに馬鹿者、しばらくひとりで頭を冷やせ」と言って、みうらんをすぐ側に呼ばないんじゃないかなって思うのだ。きっと殿も、そのくらいの意地悪はしているはずだ。私もありがとうとか言ってやらないんだからね。謝辞だけど。

7.3 上弦早乙女天魔王、あるいは人の男

 はっきり言って早乙女太一が天魔王をやると聞いた時点から、気が気じゃなかった。言葉にしてみると「たぶん、太一くんは、あの、そういう感じの、演技を、する子なんで、あの、驚かないでください、初見の方々驚かないでください、あと太一くんの蘭兵衛が好きだとおっしゃっている蘭兵衛担当の方々、がっかりしたとか思わないでください、本当に、あの、お願いします、天魔王をお願いします」という気持ちでいっぱいだった。口に出して言う機会はなかったけど。いや、あったかな。うん、あったな…… 言ってたな……。

 そうは言っても実は上弦初日にはかなり油断していた。だってほら、歴代髑髏城のアバン前って、ほんわかぱっぱのハートウォーミングエピソードではじまってきたじゃないですか? なんか、そういう、構成上の油断があったんですよ。無理もないことである。

 そして私は「六欲天をご存知か」で死んだ。はい死んだ。中島かずきが仏教オタクを殺しにきた。日ノ本一の推し役者・早乙女太一が板に立ち、エクセレントな推しキャラ・天魔王a.k.a人の男を演じつつ、仏教という圧倒的な推しフレームワークを通じてバーン!とご存知かしちゃった。ご存知かしちゃったってなにごと? いきなりご存知かしちゃうなんて普通思わないでしょ?? 髑髏城冒頭でご存知かされちゃったことなんかなかったものーーー!!!

 あの冒頭の人の男ちゃん最初のセリフによって、八識ぶち抜きの串刺しでダイレクトに阿頼耶識をぶん殴られたってすごくないですか? いったい誰が正気でいられます? はーいごぞーんじー! ごぞーんじでござーいまーーーす!! 六欲天をご存知でーーーーーす!!

 ……そのようにして、私の上下合わせた月髑髏ライフははじまってしまった。もう最初からダメに決まってんじゃんね。

 初日の上弦早乙女天魔王は、いまだになんだったのかわからないけれど、なんかすごいのがいたね、あれね。初日には森山未來天魔王の影が色濃く残っていて、それ以降はなんだったのっていうくらいその影が消えちゃったんだよね。初日の上弦早乙女天魔王はなんだろうね、イタコかね。初日を観た人は一様にそう言うけれど、私も本当にそう思っていて、上弦早乙女天魔王に森山未來天魔王の影がかぶさっていたのは初日だけだって断言する。異論は認める。

 冒頭シーンで阿頼耶識にダイレクトアクセスされるため、その後も常時接続状態でお芝居を観ることになるわけだけど、髑髏城を観ていてはじめて「天魔王を死なせたくない」と思わされてしまった。完全にそのモードにぶち込まれてしまったのが、12/19ソワレ。六天斬りで下手に投げられるはずだったマントがその日は上手に落ちていて、上弦早乙女天魔王はそのマントを引き寄せてくちゃくちゃと抱えながら体育座りで泣いたのだ。いや、人の男が泣いたのだ。それを観て、私の阿頼耶識がこの子を死なせちゃいけないってささやいてきた。阿頼耶識の支配は絶対。あ、これ、大脳新皮質が蒸発したなって。私はのちに振り返って、そう思いました。

 それからしばらく死なせたくないモードが続くのだが、その時期はまどマギに例えると捨之介がほむらちゃんで天魔王がまどかちゃんの立ち位置なのだと思っていた。その後、1/7ソワレで「あ、こんなかわいそうな天魔王なら死んでもいいや。だめだ、死ぬ以外の選択肢がない、むしろ死のう、積極的に死んでいこう、天魔王」と思い、1/14ソワレで「やっぱり死んじゃダメー!!!」ってなった。その頃にはほむらちゃんは天魔王だったんだ、と気付く。捨之介もほむらちゃんなので、殿がまどかちゃんになるのかな。そんなのってないよ。捨天蘭って、ほんとバカ。わんぱくな魔法少女を前に、号泣することしかできなかったな。

 蘭兵衛の章でも書いたけれど、彼らのゲームのセーブデータを持っているのは蘭兵衛だけだった。上弦早乙女天魔王は、きっと無理矢理でもやり直そうとしていただけなんだと思う。蘭兵衛の持っているセーブデータがあれば、一緒にやれるって思ったんだと思う。けれど結果は違った。あそこまで時計が止まった純度の高いセーブデータを持って来られるとは思っていなかったから。セーブポイント、マジで本能寺なの? みたいな。もうちょっとなんかアップデートあったんじゃないの? って、天魔王もびっくりしたでしょ、あれじゃ。

 だって8年だよ? 上弦早乙女天魔王はさ、どんな思いでここまで生きてきたと思う? 何もない状態で世界に放り出されて、ひとり殿の骨を律儀に抱えて、どこかのタイミングでメルカリに全部出しちゃうことだってできたと思うのに、それをしないで自分で運用してきたんだよ? そりゃ天魔王だって戸惑うよ。おいおい蘭兵衛今何時代だと思ってんだよって、ツッコミたかったと思う。でもしょうがない、あいつ次男性がめちゃくちゃ強いから。それを見誤った上弦早乙女天魔王が悪い。

 ノープランで書き出したら、なんとなく時系列で語ってきちゃったので、ここから千穐楽までの話を流して書こう。実はライビュ日より後の上弦早乙女天魔王に対して、情緒の兄弟船みたいなエモい高揺れを感じなくなっていったのがおもしろかった。相変わらず阿頼耶識へのダイレクトアクセスは続いていたのだけれど、むしろ上弦早乙女天魔王の功徳によって不滅の業力が心地よく循環し、エモみの輪廻転生みたいな脳内麻薬ヒーリングが起こり、どえらい多幸感に包まれてさえいたのだ。その分、三浦蘭兵衛と福士捨之介の様子がおかしくなっていくので、結局は情緒がベーリング海レベルのもみくちゃを見せ、上弦酔いすることになるのだが……。

 上弦早乙女天魔王の中の人込みでの話をすると、前期より後期のほうが生々しかったなぁと思う。前期はいい意味でも悪い意味でも作り物感がまだ残っていた。それはきっと中の人である早乙女太一くんが全力でぶつかる相手がまだ出来上がっていなかったからなのかもしれない。板の上の演技でも殺陣でも。後期後半になってくると、蘭兵衛にも捨之介にも容赦ない速度で斬りかかるようになっていて、それが身体感覚としての圧倒的な生々しさを生んだ。リアルな呼吸の乱れや上下する肩。やはり実際の動作がもたらす肉体情報の量感はごまかせない。あの生々しい上弦早乙女天魔王の生み出す空気や空間をビリビリと共有できたことが、何よりの宝物だったと思う。

 そんな生々しい存在感の上弦早乙女天魔王を振り返って、思うのだ。蘭兵衛を殺したあと、捨之介たちが来なかったら、上弦早乙女天魔王はいったいどうしていたのだろうなぁって。私はうっすら、生きていく気なんてなかったのではないかと思っている。すべてを捨てることで死に場所を探している捨之介と対照的に、全てを手に入れることで死に場所を探しているのが上弦早乙女天魔王なのではないか。蘭兵衛を殿を天を自分のものにして、そのまま死ぬつもりだったのではないか、いまだにそう思えてならない。

 そもそも、というか、そもそものそもそもが、天魔王は信長に成り代わりたいとは思っていないのだと、私は思っている。第六天魔王は信長のニックネームとして認知されていたかもしれないが、信長本体を表現する呼称ではない。信長はあくまでも戦国大名であり、殿と呼ばれる立場の人間だった。しかし天魔王は一国一城の殿様になろうとは考えていない。「殿」という呼称に対応するのは「魔王」で、その自称からは目的が出世や立身に向いていない明白な意思が見え隠れする。やはりそこにあるのは怒りや憎しみであり、やり場のない情念なのだ。天魔王自身の情念が、一連の物語を駆け抜けた。それが髑髏城の通奏低音として常に響いてくる。

 上弦早乙女天魔王は、ひとりで必死に集めてきたものをすべて奪い取られ、孤独に死んでいった。それも、すべてを捨てたはずの男の手によって奪い取られるという皮肉な運命のもとに。死因は自害かもしれないが、追い込んだのは捨之介だ。双方にとって、こんな皮肉な話はあるまい。最後の最後にすべてを捨てることになったのは天魔王のほうで、そんな結果になるなら私はやっぱり天魔王を止めてあげたかったなって思う。ひとりで死なせるなんて、したくない。天魔王が外道だとしても、私はこの上弦早乙女天魔王に寄り添ってあげたいと思ってしまう。いいんです、そういう女なんです。人間にはいい悪いで片付けられないことがある。

 ワカみたいに、天魔王が無界襲撃をそそのかす側だったら、こんなふうには思わない。でも花鳥風月の蘭兵衛は自分から無界に行くじゃん。天魔王に再会する前から己の在りかたを自嘲して、無界を自分で潰しに行くんだよ。天魔王はそれに付き合ってやってる。外道オッズを考える際に、その点は考慮すべきじゃないかな。

 でもね、やっぱり上弦三浦蘭兵衛と上弦早乙女天魔王が、こんな形とは全然違った形で一緒にやり直せていたら、そんなふうに考えてしまうんだよね。月髑髏の天魔王は、もともと本当にやり直すつもりの天魔王だったんじゃないかって感じる部分が大きい。月の天魔王は、蘭兵衛に対して「花は散り頃を知る」って言わないんだよ。散らせる気なんて本当はなかったんだって、一縷の望みをつなげてくれる天魔王なんだよ。蘭兵衛がもうちょっと変われていたら、おまえにいいことを教えてやらなくてもよかったし、務めご苦労しなくてもよかったんだよ。

 上弦の天魔王は、いや、人の男は、とってもがんばった。上弦早乙女人の男を大事に大事に抱きしめてあげたい。もう死ななくていいんだよ。うまくやれなくてもいいんだよ。ひとりでがんばらなくてもいいんだよ。ありがとう。ずっとがんばってくれてありがとう。

 私が上弦早乙女天魔王に肩入れし過ぎているのはわかっている。わかっているけど、私は天魔王担当なんです。人の男担当なんです。早乙女太一担当なんです。しょうがないんです。こればっかりはしょうがないんです。

7.4 上弦福士捨之介

 捨之介について、何を書けばいいのだろうか? ありがとうの気持ちはとても強いのだが、何を書けばいいのかは本当に難しい。考えれば考えるほど、福士蒼汰くんのことしか書けない気がする。月髑髏・上弦に通った日々は、上弦福士捨之介の成長を見守りに行っていた日々と言い換えることもできる。どう書き出したらいいかわからず、ずっと筆が進まなそうなので、これもまず時系列で書いてみる。

 キャラクターとしてまず最初に思ったことは、捨之介という名前を捨てないんだなという驚き。捨之介という名前を捨てずに、霧丸とどんなふうに生きてゆくのか。その点が興味深いと思った。同時に、上弦福士捨之介は、三途の河に何ひとつ流せない捨之介なんだなぁとも感じた。

 そんな上弦福士捨之介が、1/5ソワレで確変。この日の衝撃が今でも思い出せるくらいすごかった。上弦福士捨之介にとって「捨てる」とは生きさせられることと同義で、捨てることで死に場所を探している。このあたりからの中の人の段階進化がすごかった。

 くっきりしてきたのは、殿の駒ではなくなり「俺たちは自由になったんだ」と言いながらも、いちばん駒思考から逃れられていないのが捨之介だったという点。「囮になる」と言ったときの上弦福士捨之介は生きることと死ぬことの区別が付いていないようにも見えた。死ぬことになったとしても生きるつもりでいるし、死ぬつもりはないという意識そのものが死につながっていて、危うい端境にいた。本人には自覚がないけれど、幸い霧丸や太夫がそれを見抜いている。側に彼らがいてくれて、本当によかった。

 上弦福士捨之介のこじらせているところは、あんなにまっすぐでまぶしい笑顔を見せる男が、その実無意識に死に場所を探しているというところだし、その点は蘭兵衛よりもめんどくさい。蘭兵衛は真正面から自分自身の意思で死に場所を求めた。一方の上弦福士捨之介は、自己犠牲の意識なく、駒思考として命を投げ出すタイミングを探している。これは実はずるくて、他人を利用して己の死に意味を持たせるやりかただと捉えることもできる。そんなことはさせないと、強い意思で介入してくれた霧丸がいたから、そうならずに済んだ。もし上弦福士捨之介の隣にいるのが弱めの沙霧だったら、もしかしたら捨之介は死んでいたかもしれない。強めの沙霧なら大丈夫だったと思うけど。

 そんな上弦福士捨之介、1/23ソワレくらいから、天魔王が落ちた後の絶望の意味が変わったような印象を持った。それまでは、ほむらちゃん的なアレで、天魔王を死に至らしめてしまった絶望を勝手に感じていたのだけれど、周囲の仲間との関係性が(演技の中で)もうちょっと読み取れるようになってきたというか、ここにいる6人をいかに無事に外に逃がすかが、ちゃんと頭の中にあるように見えた。

 捨之介が「まがい物でも命は救える」と言ったとき、偽物である天魔王の首でも、戦で無駄死にする者をなくせるんだと言いたかったのではなかったか。「天魔王を止める」という言葉の意味は、天魔王を止めることで負の連鎖を止めるのだという意味ではなかったか。逆に言えば、天魔王の首がなければ仲間を安全に逃がすことは叶わない、きっとみんな死んでしまう、そういう絶望だったのではなかったか。自身が徳川兵を引き付けるという自己犠牲の姿勢は変わらないが、それは死に場所を求める行動ではなく、ある種の怒りから来る行動で、仲間を逃がすための行動なんだなと思えた。なんだかんだ言って、天魔王を止めることと生かすことは同義ではないのだ。

 2/13ソワレくらいから、光と闇を行き来する芝居に凄みが出てきたな、と感じるようになった。目から光を消す、目に光を入れる、という芝居を意図的にコントロールしてやり出したように見えた。目の光の芝居に注目するようになったら、途端に上弦福士捨之介の本当の気持ちが見えなくなってきた。天魔王を差し出して仲間を無事に助けたいという捨之介なのか、やっぱり天魔王自体を助けたいと願う捨之介なのか。

 しかし、もしも本当に純粋に天魔王を救いたいと思っているのなら、あまりに残酷すぎる結果だった。上弦福士捨之介が天魔王に対して取るアプローチは天魔王にとってはひどい屈辱だろうし、天魔王の死にかたは捨之介にとってこれ以上ないショックであったろう。そもそも捨之介は天魔王の何を止めたいのか? ちょっと会議室に呼び出して要素分解させたい。はい、今から捨之介のコンサルをしまーす、はい捨之介さんね、ここにね、書き出していきましょうね。なるほどそれが貴殿の短期ビジョン、はいそれでは中期的に見ていきましょうか、ってやってやりてぇだろ、本当。なんなんだよ。何がしたかったんだよ。ちゃんと言ってよ。みんなわかんないよ。

 この頃から、捨之介が正しいのかどうかわからなくなった。捨之介は何がしたいのかと考え出したら、ノイローゼになりそうだった。ただでさえ勧善懲悪の世界観を信じていない、どえらい天魔王担当の私である。捨之介の行動ってそれ正しいの? いやひとつの正義だろうけどさ、なんかちょっと甘やかされたヒーロー像なんじゃないの? 大丈夫? ドリンクバーいる? ココア飲む?

 そもそも、自分が何ひとつ捨てていないことを棚に上げて、だ、天魔王と蘭兵衛にあれこれ捨てることを強いてるって、なんなの? むしろそれって捨之介が天蘭に一方的に依存してるんじゃないの? 依存の対象であった殿が死んで、昔馴染みの2人に依存対象を乗り換えたかっただけなんじゃないの? いや、そんなことないでしょ、捨之介はがんばってるよ、必死で天魔王を止めようとしてるんだよ。だから何を止めるの? 天魔王を止めると何がうれしいの? 捨之介って本当に最後まで生き残るべきヒーローだったの?

 あーーーーーーーーーーーーーーーー!! ノイローゼになる。今思い返してもノイローゼになれる。捨之介のこと、疑いたくないんです。あのにぱっとした主人公然とした笑顔を信じて乗っかりたいんです。余計なことは考えたくないんです。勧善懲悪、上等です。でもあたし、天魔王担当だから。人の男担当だから。論破しなくちゃいけないんです、上弦福士捨之介を。あいつの取った行動を。苦しい! 苦しいったら苦しいよぅ! お願いだから捨天蘭みんなで上手にやり直してくれよぅ! 円環の理バッチリやり直してよぅ! お願いだよぅ!

 でもね、上弦福士捨之介にはみんながいてくれた。千穐楽に向かって、力強い上弦カンパニーがいてくれた。捨之介は彼らのためにがんばったんだって思えた。捨之介のまわりにいるみんなは、ちゃんと光の側にいるんだって言えた。彼らが引き戻そうとする捨之介なら、きっと大丈夫な捨之介なんだって、そう信じられた。彼らがいてくれたから、捨之介の自我に食い込んでいた殿という概念が正しく殿という個に切り出され、理想としての天が(天魔王の影を含まない形で)復元され、捨之介の自我が光の中で再構築されたのだ。殿との時間に照らされていただけの上弦福士捨之介が、これからは自分自身で光るための夜明けに向かってゆく。舞台ラストの「終」が浮かぶ空に、捨之介の未来がある。

 だから私は考えるのをやめた。感じるのだ。上弦福士捨之介を余すことなく感じるのだ。同じ時期に「構造」としての仕上がりを見せはじめた上弦三浦蘭兵衛とは対照的に、上弦福士捨之介は「象徴」としての捨之介になりやがった。しゅごい。福士捨しゅごい。福士蒼汰くんは捨之介だし、捨之介は福士蒼汰くんだよ。もうなんていうか、そこにしゅてのしゅけがいるんだよ。ふ、ふくしくん…… しゅてのしゅけ……しゅ…… しゅ…… そこにいるね、いるね、うん、ぺろぺろ…… ぺろぺろ……

 取り乱しました。私は捨之介担当ではないはずですが、上弦福士捨之介、本当に好きでした。ありがとう。ありがとうわんわん。

7.5 上弦平間霧丸

 ありがとうという言葉を一身に受けるために生まれてきた男、霧丸。正直なところ、前半はあまり注目していなかった。逆に言えば、悪目立ちもせず、嫌な意味で引っかかる箇所もなく、すごく自然に上弦平間霧丸はそこにいた。沙霧から霧丸に設定が変わったことで、きっともっと妙な感覚になるのかなって思っていたのだが、ちっともそうはならなかった。むしろ、今まででいちばんスッと入ってきた。スッと入ってきすぎて、情緒の兄弟船状態だった上弦カンパニーの中で、霧丸に改めて注目する機会が遅れたのだというのが正しい。そう、それが遅れちゃうほど、情緒不安定だったよね、上弦カンパニー。

 上弦平間霧丸は、ぐいぐい自分が前に出る芝居がなかったぶん、月髑髏・上弦全体の希望をかなりの割合で担っていた(同じくらい上弦のペースメーカーだったのは須賀兵庫だと思うが、それは兵庫の章にて)。上弦平間霧丸は、上弦福士捨之介に守られているようで実は自分で光っていたし、霧丸がいなかったら捨之介は最後まで救われていなかった。もちろんそういう役どころなのだと言われればそれまでだが、上弦福士捨之介の生の呼吸を見極め、それにぴったりはまる芝居を返していく中の人の力量は見事だった。運動量も尋常じゃなかった。上弦福士捨之介が後半あんなによくなっていったのは、上弦平間霧丸の中の人の打ち返しや照り返しの蓄積によるところが大きかったのではないかな。

 キャラクターとしての上弦平間霧丸は、おじいやおとうに素直にじっくり熊木の技術を仕込まれながら、一族を信じて尊敬し、一族の背中を見て育ってきたのだろうなという印象。ごく自然に仲間という存在を理解し、その大切さを知る人間なのだ。おじいやおとうからもらった節くれだったいい手。それをしっかり見てくれた捨之介を信用したのだろうし、改めてその手で持つ刃は明日に向けようと決めたんだと思う。

 とにかくずっと泣いているイメージの上弦平間霧丸、でもめそめそ泣いているという感じでもない。めそめそというなら、蘭兵衛のほうがよっぽどめそめそしている。泣いてなくてもめそめそしてるだろあれ。上弦平間霧丸は、こみ上げる自分の気持ちが抑えられず、生命力の強さが素直に発露された結果として、涙が溢れているんだろうなと感じる。涙は弱さの象徴じゃない。そんなふうに思わせてくれるから、上弦平間霧丸が大大大好きだった。

 私がいちばん好きな上弦平間霧丸のシーンは、無界の里に連れて来られてごはんを食べているシーンだった。おなかがいっぱいになったことで素直に笑顔を見せるきりちゃん、それを見守る太夫とおでんのやさしい顔。ステアラ上手前方席には、そのシーンがまるごとセットの柱で遮られて見えなくなる席が存在した。その座席に当たっているときは、心底さみしい思いをしたものだ。あれはね、構造上必要なものだったとしても、やっぱりよろしくなかったと思いますよ、本当にね。あの柱、最後は燃やしてほしい。燃やせ。

 あと、太夫が黄泉笛ソングを歌うとき、無界の2階でみんなを見ているきりちゃんがだんだん笑顔になっていくのがうれしくて、かわいくて、きりちゃん、きりちゃんきりちゃん、きりちゃああああああん!! ってなってた。私は霧丸担当ではないし、きりちゃんおじさんではないのだが、そんな私でさえもそんな感じになっちゃうやつだった。きりちゃん…… きりちゃん…… ぺろぺろ……

 そんな上弦平間霧丸については、ひとりっ子感がめっちゃある。ただし、ひとりっ子テンプレのワガママ児という感じではなく、一族等しくみな兄弟、みたいな逆の方向性のひとりっ子感。ワンオブゼムのオンリーワンって感じで、結果的に出るひとりっ子感。一族の誇りを持ちながら、でも別に家柄とか家督とかそういうことは全然二の次。自分たちの腕でできることを誇りにしている。

 捨天蘭はたぶん何時間でもファミレスで殿の話ができるけど、霧丸はドリンクバーだけで何時間もねばるくらいなら、俺バイトに行くわ! って言ってひとりさっさと帰っちゃうタイプ。いない人の話してるくらいなら、手に職つけたほうが自分のためにもなるし! 楽しいし! って、さらっと言っちゃう。おまえらもいつまでもそんな話してないで、バイトなり部活なり行けよな! って言ってくれる。捨天蘭は顧問がいなくなってどうしたらいいかわかんないのにね。だけど翌朝は絶対捨之介の家まで迎えに来る。早くしろよー俺まで遅刻しちゃうだろーって声かける。尊い。きりちゃん尊い!!! みんなのそばにいてくれてありがとうね!! ありがとうねぺろぺろ!!

 きりちゃんは衣装のお背中にずっと髑髏を背負ってたけど、復讐心が消えたあとは、あの髑髏下ろしてあげたかったな。これから捨之介と歩いてゆく未来では、きっと違うお衣装着てるんだろうな。普段着には髑髏なんか背負ってない、無印のボーダーくらい力の抜けたお洋服を着ていてほしいな。仕事服は仕事服でまたきっちりしたやつを、ね。

 あと、月の霧丸は仲間たちをどうやって弔ったのか、もしくはこれからどうやって弔うのかなっていうのは気になっています。劇中では御魂の森返しはしなかったけど、これから捨之介と一緒に行く先で、落ち着いて仲間を弔ったりするのかな。物語の外側で、いい人生を送ってください。ありがとう。ありがとうぺろぺろ。

7.6 上弦須賀兵庫

 上弦須賀兵庫は、上弦カンパニーにいてくれて本当によかったと思う。みんなそれぞれ上弦カンパニーにいてほしい人たちだけど、上弦須賀兵庫が欠けたとしたら、上弦の月は成立しなかったんじゃないかなって思う。ペースメーカーとしてもすばらしい仕事をしてくれたと思うし、中の人である須賀健太くんが持つ稀有なキャラクターが、あらゆるシーンの隙間でキラキラ輝いていた。

 上弦須賀兵庫は、前半は本当にただの無邪気な子どもだったよね。ピュアすぎてみんなほっとけなくて付いてくるし、仲間からたっぷり愛されているのだが、やっぱり全然太夫と釣り合う男ではなかった。太夫の年齢のせいではない。兵庫が子どもだったからだ。

 無界襲撃後に上弦須賀兵庫は、荒武者隊の死を前にして「うええ……」って声を出して泣く。あの「うええ……」を聞くたび、すぐ芝居止めてヴェルタースオリジナルを与えたくなる。その味は甘くてクリーミーで、こんなすばらしいキャンディーをもらえる兵庫は特別な存在なんだよ!! 今では私がおじいさんなんだよ!! 何それ意味わかんない!!! でも混乱した私がうっかり舞台に飛び出していく前に、太夫が兵庫をちゃんと抱きしめてくれる。同じく仲間を失った痛みを引き受けるかのように背中をさする。

 上弦須賀兵庫は、きっとあのときに子どもではなくなった。上弦須賀兵庫に元服という概念があったのかどうかわからないけれど、あれは精神的な元服だった。子どもではなくなった兵庫は、蘭兵衛を極楽に送ったあとの太夫と接して、また一歩大人になる。自分の痛みと太夫の痛み、両方を合わせて大人になったのではないかな。

 その階段を登っていく様子を、わりと初期の頃から変わらぬテンションで演じてくれた須賀健太くん。あの情緒兄弟船の中で北極星みたいな役割を担ってくれた須賀健太くん。上弦須賀兵庫はやっぱり、末っ子か孫だよね。兄貴なのに。みんなの兄貴なのに末っ子か孫っておかしいね。でも本当にそうなんです。現にヴェルタースオリジナル与えたくなっちゃってるし。特別な存在なのですって言いたくなってるし。あんまりおこづかい持ってないから、ドリンクバー代も出せなくて、ファミレスの外で窓越しに捨天蘭にちょっかい出すんだよ。それで蘭兵衛にため息つかれたりするんだよ。そんでチャリでバイトに行く途中の霧丸に、もう暗くなるから早く帰れよって言われるの。父ちゃん母ちゃんに心配かけんじゃねーぞって言われるの。俺そんな子どもじゃねーしって、石ころ蹴るの。

 かわいいかよ…… 上弦須賀兵庫かわいいかよ…… でも実力十分、流石の貫禄でした。本当にいてくれてありがとう。

7.7 上弦のみんなたち

 ここからはいろいろをごっちゃに書くけど、何から書けばいいかな。

 まずは上弦村木じん平、つまりおっとう。無界襲撃からずっと震えていたのに、鎌を手にして髑髏城に向かうと決めたときに震えが止まった。あんなに愛しい七人目がいていいものか。みんなと一緒に行ってくれてありがとう、おっとう。

 荒武者隊はみんな愛しいけれど、特に上弦家内赤蔵。なんで赤蔵だけこんなに愛しいかというと、無界襲撃時に斬られて倒れ込むおでんを抱きとめてくれるのが赤蔵だから。天魔王に威嚇されてあんなにおびえていたのに、最期まで必死で立ち向かったね。ありがとう、赤蔵。

 上弦傳田おでん。無界サンバのあと、スクリーンが開いていくとき、おでんが両手いっぱい広げて出迎えてくれるのが何より好きだった。ありがとう。あのシーン本当に本当に好きだったんだよ。ああ、上弦の無界に来たんだなって、いつも胸がいっぱいになった。おでんがああやって迎えてくれるから、上弦がこんなに好きになったのかもしれないよ。おでんのその姿が観たくて、下手席ばっかり狙うようになったよ。だからDブロックが私の居場所でした。上手ではあの姿がまったく見えないから、公演を観ていながらも、あのおでんを観ていないという人がたくさんいるんだと思う。それは心から残念なことだと思う。

 上弦市川贋鉄斎。もう言葉もありません。わんわん捨之介をなんとかうまいことしてやってくれて、ありがとうございました。なんとかうまいことしてやってくれてなかったら、まるまるずっと事故だったと思う。

 上弦山本生駒。本当はもっともっと意地汚く生きて、天魔王のやつを引っ張り出してやってほしかったよ。でも生駒の気持ちはわかるよ。そうだよね。きっと私でもそうした。いや、そうしちゃいけないの。わかってるけど、そうしちゃうんだと思う。そのしょうがなさを、生駒には乗り越えてほしかった。でもがんばったよね。ありがとう、生駒。最期のときを迎えるまでずっと天魔王のお世話をしてくれて、ありがとう。

7.8 挿入歌

 すごく基本的なことに立ち返ると、髑髏城のエピソードって、本当にたった数日の間に起こった出来事なんだよね。「月影が満ちた有明 これほどに短く儚く」って歌詞が改めて刺さってくる。長年一緒にいて、確かに何かを育んできたはずなのに、こんなちょっとの時間にすべてが起こって終わる。すべてが終わって夜明けが来るほんの一瞬のときを示唆する歌詞を、太夫が歌う。そんな切ない話があってたまるか。

 蘭の花が咲くといううつせの轍は、ダブルミーニングどころか含みが多すぎる。現世。虚。太夫の目からみた蘭兵衛は、倣わずともよいこの世の理に囚われているのか、それとも空虚なぬかるみに沈んでいるのか。しかも「咲く」のではなく「咲かさるる」。そんな蘭兵衛を、太夫は見出した。見出して大切にしてきたものを、あんな形で失う。

 アオドクロの黄泉笛ソングも好きなのだが、あの歌の歌詞は黄泉の花が花としての意味で描かれている。月髑髏での歌詞は、花が蘭兵衛のメタファーに成り代わっている。それは芝居にも表れていて、上弦三浦蘭兵衛は去り際に花を残さない。ただ自らが無界を仰いで去ってゆく。回転劇場のギミック込みのあのシーンは、いつも胸が潰れるような思いで観ていた。

 天魔王の章でも書いたけど、月の天魔王には「花は散り頃を知る」というセリフがない。その事実を黄泉笛ソングの歌詞を並べてみると、やっぱり天魔王は天魔王なりに、その花を轍なんかじゃない場所で咲かせようとしたんじゃないかなって、そう思いたくなるのだ。天魔王から見て轍に見える場所と、太夫から見て轍に見える場所は、それぞれきっと違う場所だったのだろうけれど。

 月の黄泉笛ソングを受けてのラストの夜明けは、だから余計に心に刺さる。みんなのそれぞれの夜が明ける。そんなやりかたで消したかったわけではないだろう因果が、それでもいびつな形で昇華された。蘭兵衛という花は、うつせからも轍からもいなくなった。確かにそこに咲いていた蘭の花の純情は、きっと太夫の胸の中には残り続けるのだろうな。

7.9 捨天蘭

 月髑髏・上弦では、捨天蘭の関係性にだいぶ心を持っていかれた感がある。どの髑髏城の関係性とも違う、若さゆえのつながり。こんなに上弦にどハマりしたのは、そこに大きな理由があると思っているよ。上弦だけが持つエッセンスって具体的になんなんだろうということをずっと考えていたので、まとまってないけど書きながら今さらまとめてみたい。ただし顔のよさ要因は除く。

 上弦全体を通じて味わいを深めているのは「誰かを通して見る自分自身の哀しさみたいなやつを見つめるしんどさ」みたいなものなんじゃないかな。まわりくどい表現しか思い付かないけど、今のところはその表現がいちばん脳内にある情報に近い。もっとシュッと表現できる言葉が見つかればいいんだけど。

 蘭兵衛の章で書いた「くだらぬ意地を」のセリフが蘭兵衛自身に返ってくるのと同じように、天魔王が蘭兵衛に言った「あわれなやつめ」も天魔王に返っていくって考えると、胸がぎゅうっとなる。他の髑髏シリーズでも同じセリフ・似たようなセリフが当然あるわけだけれど、月髑髏・上弦では特にこういう部分に上弦特有のエモさが凝縮されているような気がする。

 捨天蘭のそれぞれ違うイデオロギー同士がすれ違い、ぶつかり合う。過去を清算すること、主君の目指したものを成し遂げるために生きること、主君と共に立派に死ぬこと。贖罪、理想、プライド。人と触れ合えばほどけていくこともあるが、孤独であればあるほど時間がそれを煮詰め、凝縮し、増殖し、狂気へと変えてゆく。3人の大きな違いは、もともとのイデオロギーの違いだけでなく、8年間どんなふうに過ごしたかの違いでもある。

 イデオロギーを違えながらも、合わせ鏡でもあり、フィルターでもあり、捨天蘭の自我が互いに依存している状態。蘭兵衛は天魔王に会わなければ(無界のみんなのおかげで)依存から抜け出せるチャンスがあったけれど、会えばやっぱり共依存。若い自我を誰かに盲目的に捧げた代償はあまりに大きい。普通は若いうちに戦場で死ぬか、武将として持ち上がり出世するかなんだろうけど、捨天蘭は依存関係を断ち切る機会を得られないまま、なぜか何もない世界に放り出されちゃった。それが上弦の物語そのもの。

 みんな本当は殿の御霊なんかではなくて、自分たちの亡霊に囚われ続けてるだけなんだよね。だからこそひとりだけうまいこと依存と呪縛から解放された上弦三浦蘭兵衛、腹が立つ。天魔王は何もない世界にひとりで放り出されたに等しいし、捨之介はこれから霧丸と共に自分で乗り越えてゆく努力が必要だというのに、蘭兵衛には太夫や無界のみんながいて、最期の最期までお膳立てされてバイバイしたんだよ? ないわぁ。ずるいわぁ。どんだけイージー舗道なんだよぉ。

 もうなんかあいつ、あいつが持ってる鉄パイプ取り上げて殴りたいくらい腹が立つ。自慢の鉄パイプでいいだけメッタ打ちした後で、ごめんね大丈夫だよごめんね大丈夫だからって抱いてあげたい。なんなら私がみうらんに依存してる気さえしてきた。人の男担当なのに。大丈夫だよ、みうらん、国道沿いのファミレスであったかいココアを飲もうね。駐輪場も無料だよ。全然どうでもいいけど、いくら腹が立っても、みうらんの顔だけは殴れない気がしています。

7.10 捨霧

 「誰かを通して見る自分自身の哀しさみたいなやつを見つめるしんどさ」というのは、捨之介と霧丸にも当てはまりそう。物語の前半後半で光と闇が反転するように見える2人を、エモさ抜きで見つめることはできない。

 守ってやらねばと思わせる闇落ち寸前の霧丸を捨之介が救い上げ、後半で闇に飲まれそうになる捨之介を霧丸が救い上げる。けれど、どちらの場合も、光のほうへ向かうことができたのは、霧丸の生命力があったからなんだと思う。だから彼らは合わせ鏡ではない。全然シンメトリーではない。前半は救われたように見えた霧丸だけれど、差し伸べられた光と捨之介の手を握って離さなかったのは霧丸のほう。後半では、光のほうを見ようとしない捨之介の目に、無理やり光を入れる。光を握っていたのは、ずっとずっと霧丸のほうなのだ。

 最後のシーンで捨之介が言う「恐れ入ったよ」のひとことには、霧丸の生命力の強さを感じ、ずっと救われてきたと痛感する気持ちが全部含まれていてほしい。霧丸がその意味を正確に受け取ったかどうかはわからないけれど、捨之介が霧丸にそのひとことを伝えたことに意味がある。あのシーン、何回観てもじわっと来た。

7.11 最後に

 めちゃくちゃいびつだったはじめの頃から、みんなが成長した後半まで、ずっと観続けられてよかった。上弦早乙女天魔王に得体の知れない異質さを感じ続けた期間は若干つらみもあったけれど、上弦カンパニー全体のバランスが整ってきて、上弦早乙女天魔王が浮かなくなったって思えたのがうれしかった。

 舞台強者たちががっちりかつやわらかく土台や脇を固めてくれていたから、舞台慣れしていないキャストも思いっきり持ち味を活かせたり、ポテンシャルを爆発させたりできたんだと思う。特に2/11以降にカンパニー全体の温度感がぐぐっと押し上がった感じがして、公演期間最終ブロックの魔物は、よくも悪くもカンパニーにブーストをかけさせるものなんだなぁと実感した。

 そして月髑髏期間を通じてわかったことは、私は天魔王担当なのではなく、人の男担当なんだなってことでした。月髑髏が終わってしまったのはとてもさみしいし、喪失感でいっぱいだけれど、もう上弦早乙女天魔王が死ぬことはないんだなって思うと、安心して眠れる気がする。ありがとう、人の男。ゆっくりおやすみ。もう二度と悪い夢を見ないように。

 月髑髏・上弦に、心からありがとう。

何もかもを合わせ飲んで説き伏せる、偽義経の力技ビジュアル

突然だけど、新感線の舞台ってものすごい力技だと思う。偽義経冥界歌では改めて新感線の力技を見たなぁという気持ち。めちゃくちゃ感慨深い。この記事はネタバレを含みながらとりとめもなくビジュアルについて語る記事なので、ネタバレは嫌! というかたはネタバレなしの記事の方へどうぞ。

はい、はいはい、そうですよ、そうなんだよ! 聞いて! 大阪は千穐楽を迎えたけれど、偽義経冥界歌はまだまだ続くんだよ! 金沢! 松本! 難しい内容なのでは…? などとビビッてしまっちゃわなくて大丈夫! 安心してビジュアルのパワープレイに殴られに行こうね!

ビジュアルは強さ、力こそパワー

美大生や芸大生が持ってる漠然とした「なんか作りたい」ムードって、めちゃくちゃ強いものがあって抗えない種類のものだと(個人の体験からは)思ってるんだけど、それを折らないまま商業的にスケールすると辿り着くのが新感線、っていう感じがある。美大の文化祭の悪ノリが極まった先のひとつの見本みたいなもの。

だから文学的叙情とか社会的問題提起とか全部置いといて(それがゼロとは言わないけれど)、「強いビジュアルの強い強さを強く見よ(バーン!!)」みたいなとこがあると思ってる。ビジュアルは強さ、強さは力、力こそパワー。

矛盾も疑問も全部まるっと合わせ飲んで、圧倒的なパワープレイでぶん回す。新感線の舞台を観ると頭をぶん殴られたような衝撃に襲われる理由はね、力技で殴られているからなんだよ。殴られているんだから、殴られたような気持ちになります。大丈夫安心して。何も間違ってない。

そう、だから、ビジュアルの話をしよう。我々にはビジュアルの話が必要なのだ。「かっこいい」「見た目がきれい」「顔がいい」このような感想を言うと、お芝居や舞台をなんだと思ってるんだ! もっと文化的で深遠なものなんだ! チャラチャラしたこと言うんじゃない! と怒られちゃいそうな気がしますよねなんとなくだけどね いや絶対怒る人いるよねホントごめん。

でも、ビジュアルは大事だよ。ビジュアルは、大事だよ。二回言いますよね。大事だからね。視覚的表現を抜きにして、舞台は語れないのだよ。新感線の舞台はビジュアルの太さが魅力のひとつなのだから、ビジュアルを褒めて何が悪いことあるか。ダイナミックなセット、世界観を作るライティング、作り込まれた衣装、いい感じに手を抜きつつ機能を担保する小道具、役者さんの肉体という媒介。ビジュアルにはもんのすごい情報量が詰まってるんだよ。

美を浴びて感じるもよし。込められた意味を読み取って考えるのもよし。どう味わおうが、ビジュアルがいいという愉悦からは逃れられない。だからいいのだ。「ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!!」と、好きなだけしびれればいいのだ。誰にも怒られる必要はない。バカにされる必要もない。

ビジュアルは強さ! 強さは力! 力こそパワー! 太いビジュアルを観せられる我々は、そのビジュアルを信じればよい!! 信じて殴られたその痛みは本物だから。そこには強い価値があるから。もう一度言う。力こそパワーなのだ!!

歌舞伎の隈取の要素

ビジュアルのことを考えすぎて気がおかしくなってしまう前に、先にちょっとだけ知性がないと話しきれない話をしておきます。どうせ後半知性が目減りするので。

いのうえ歌舞伎をさらに歌舞伎に寄せたと言われる偽義経、登場人物がメイク=隈取を変えてゆくことで役の性格と解釈と役割を変える演出がとってもいい。ここで歌舞伎の隈取について語らずにはいられない。

ちなみに以下が偽義経で覚えている限りの隈取と衣装をメモしたアレです。正確性には問題がある(うろ覚えもいいところ)イラストなので、参考程度にご覧ください。

もちろん、歌舞伎の隈とまったく同じものが用いられているわけではないのだけど、似ている隈とか参考になる隈を調べてみたので、ざっくりメモ描きと共に語っていきます。出典は岩崎書店から出ている『隈取り―歌舞伎の化粧』です。

地獄の軍団のメイク

秀衡をはじめ地獄の軍団の隈取は、歌舞伎で言うところの「亡霊怨霊」の隈と「実悪」の隈を混ぜたようなデザインになっていて、最終的に悪役を表す青色が入っていくんだよねぇ。これには「わーっ!」ってなるよねぇ。

秀衡の最終形は、「亡霊怨霊」というよりは「実悪」に近いメイクになる。色も形も「実悪」そのもの。近いのないかな〜と探してみたところ、知盛系はどれを取ってみても近い。知盛っていうのは平知盛のことで、清盛の四男です。世界大百科事典によると「《平家物語》の中では,知盛は戦場においては果敢な武将としてふるまい,生死の場に臨んでは人間の心の動きを鋭く洞察し,また背後で人間を操り,支配する運命の不可思議な力を自覚していた人物としてえがかれる」のだそうです。そんな人物の焦燥と絶望を表現する隈。なるほどですねぇ。

清衡と基衡については、「実悪」の色合いに加えてもっと違うキャラクターのエッセンスもあったなぁって気がする。形については断然「亡霊怨霊」寄りだよね。似ているものを探してみたら、土蜘蛛やなまなり、道成寺の後ジテなんかが近かった。中でも清衡は土蜘蛛に、基衡はなまなりに近いなぁという感じ。

土蜘蛛は妖怪の類。源頼光を狙って、結局やられちゃうやつ。でも土蜘蛛っていう言葉にはもうひとつ意味があって、古代に大和朝廷に従わなかったために滅ぼされた民族を指す言葉でもあったんだって。えーめっちゃ奥華じゃん!! 奥華の設定と重なるじゃん!! 震えちゃうね。

なまなりは鬼になりかけの状態、憎しみに飲み込まれきってはいない人を指す状態。飲み込まれると般若になっちゃうわけですよね。基衡がそれに近いっていうのを勝手に解釈してみると、なかなかに興味深い。己の筋肉を信じる二代目ボンボンである基衡、「実悪」になるほどの未練みたいなものがないんじゃないの…? みたいなさ。鍛えた筋肉を誇示できるの楽しーッ! みたいな気持ちが先立ってるんじゃないのっていう(笑)。

他には戻橋の鬼女やうわなり、紅葉狩の鬼女が参考になるかな。歌舞伎は隈取や衣装の早替えが見どころのひとつになっているから、早替えのための工夫が随所に凝らされている。偽義経の冥界組も、何度も変身していくもんね。だから最初はシンプルなタイプの「怨霊亡霊」型からはじまって、ちょっと複雑な型にアップグレードしていく。ビジュアルの見どころとしても超おいしいところだなって思う!

玄久郎と遮那王のメイク

玄久郎の最終形メイクは、源九郎狐に用いられる古代狐隈っぽいメイクなんですよねぇ。聖なる獣みがあって、まさに化生って感じ。源九郎狐っていうのは、歌舞伎の『義経千本桜』義経に登場する狐ちゃん。親狐の皮で作られた鼓を慕い、その持ち主である静御前のもとへ、義経の家来で秀衡の親族でもある忠信に化身してやってくる狐ちゃんなのだそうです。

玄久郎っていう名前も絶対そこから取ってるんでしょ…? 自身の毛を織り込んだ弓弦で鳴る六絃の音を頼りに、静歌のもとによみがえる玄久郎… そういうことなんでしょ…?(震えてる)

ちなみに衣装のほうもこのあたりを踏襲してるんじゃないかって思うのが、毛縫っていうやつ。源九郎狐は白い生地に白い絹糸をよじって刺繍してある衣装を使うんだそうです。その衣装を毛縫いって言うんだって。まったく同じではないかもしれないけど、玄久郎の衣装もそういう雰囲気あったよねぇ。なんなら冥界組みんなそういう衣装だった気がする。もう記憶が定かではない。

もうひとつ、似ている系を挙げるとすると、鳴神の二本隈。ただし、こちらは強い怒気や興奮を表している隈なので、似ているとはいえ表現のもとになったかというと、そうではないと思う。古代狐の比較として置いてみたけど、見比べると表現の目的の違いがよくわかっておもしろいよね。

そして牛若丸の隈ね。こういう専用の隈があるんだね。知りませんでした。偽義経の遮那王も元服前の設定だったし、本当はこんな高貴な子どものはずなんだよね。全然高貴じゃなくてヤンキーだったけど。そもそも牛若丸みたいな高貴な子どもだったら、あんな顛末にならないよね(笑)。そうは言いつつ、牛若丸隈の面影をそこはかとなく感じるメイクだったのはさすがだなって思った。牛若丸の隈よりも鬼女に近いでしょっていう感じの隈だったけど、そこはかとなく牛若丸だったんだよなぁ。すごい。

ビジュアルのこと考えるの超たのしいよ!

ここまでしてきた隈取の話は、私が勝手に結び付けているだけの話なので、正解でもなければ信じるべきものでもないです。間違ってるかもしれないし、素人の妄言以上でも以下でもないんですが、が、が、いろいろ考えるのって楽しいよね…。

いろいろ考えるのは楽しいのだ… みんなも楽しもうよ… ってことだけは声を大にして言いたい。大にしたいから大にした。ああ清々しい。皆々様も自分なりの妄想ビジュアルポイントを見つけて楽しんでね… おねえさんとの約束だよ…。

ビジュアルがいい話をします

さて、前置きが長くなったけど、これから知性をほっぽり出して「ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!!」と白目を剥く話をします。

極まったキャラクターデザインと引き絵としてのバランス両方の話をしたいなぁと思ってるんだけど、なにせ知性をほっぽり出してしまうので、途中でわけわかんなくなったらごめんね。あとキャラクターについては自分の好きなキャラクターだけをピックアップして独断と偏見で物を言います。

どのキャラクターも好きなので全員分話したいのだけど、たぶん途中で力尽きる。間違いない。

常陸坊海尊

ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!! しかもキャラ立ちがむちゃくちゃシンプルで安心した。偽義経がはじまる前は、ビジュアルこうだったらいいな〜という勝手な妄想があった。それは役者さんと過去作に紐づく妄想で、『蛮幽鬼』という演目で山内圭哉さんが演じた浮名という男の後頭部に和風トライバルといった感じの模様が入っていたことから、またあんな感じの模様が入っていたらいいな… という単なる性癖を暴露する以上でも以下でもない妄想なんですけど。が、やはりそんな模様はなく、そして模様がないことに落胆するのではなく、とっても安心した。

きっとないとは思っていたんですよ。模様があるような役柄じゃないじゃないですか、海尊。ないと思ってはいたんですよ、十中八九ね。でも、模様よあってくれという気持ちが風になり海を渡り復讐の鬼となって国に帰り城を燃やす、そのくらい模様があってほしかった。圭哉くんの頭に模様を描かずにいられない新感線ちゃんのことを信じていたし、たとえ裏切られてもまだ信じてている。でも模様がないことに安心したんですね。安心したので城も燃やしませんし 。

なぜかっていうとね、模様が不要なキャラクターに模様を描いたらダメだろ、というシンプルな理由で。なんでもかんでも足し算すればいいってもんじゃない。あるからには意味があるんであって、意味のない模様を描くわけにはいかんのだ。そんな気持ちなわけです。蛮幽鬼の浮名は女たらしの豪族ぼんぼん右大臣で、装束や身なりもそれ相応の雰囲気があった。でも海尊は山を渡り歩く僧兵のような男、しかもそれなりに信頼される立場の男。そんなキャラの後頭部にトライバルもタトゥーも要らないよね… わかる。解釈一致。

でも私は新感線ちゃんを信じているので、本当は模様を入れたかったって信じているよ。涙を飲んでプレーンヘッドにしたんだって信じているよ。だって圭哉くんほど後頭部の模様が似合う逸材もいないもんね。隙あらば描きたいよね。わかる。わかっている。みなまで言うな。圭哉くんの頭部に模様があるかないかで観劇消費カロリーが変わる世界に、我々は生きている。

ただ、圭哉くんの後頭部にある金色もしくは黄土色の何かはなんなんだろう、というのは疑問。もしかして伸ばしかけの地毛弁髪だったりする…? けもなれで一回剃ったから…? 伸ばしかけの地毛弁髪を脱色している感じ…?

東京福岡の後半戦で、圭哉海尊の後頭部がどう変化しているのか、大変に楽しみです。

奥華秀衡

ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!! 私は初日に大阪に向かう新幹線の中で、はじめてゲネプロの写真を見た。そこで目にした秀衡のビジュアルがよすぎて、本当に本当に見ちゃったことを後悔するレベルで動揺した。宣材写真と実際の舞台衣装が違うのはよくあることだけど、あっ、こんなに? こんなにやばいの今回? と動悸がした。大阪では都合4回観劇して、そのたびに秀衡のキャラ造形とビジュアルに震えた。久しぶりに本格的に語彙を失ってしまった。びっくりした。

ビジュアルが強くて無理すぎて秀衡ばっかり見てしまうため、目から得た視覚情報がうっかり口から出てニューSD秀衡を量産してしまうのではないかと心配になった。しかし私の口から生まれるような秀衡は解釈違いだし、私の口から生まれるような秀衡はいるわけないので、問題なかった。ありがとう自然の摂理。

秀衡は最低でも5パターンのビジュアルがある。6パターン目があったのかどうなのかは自分の中で審議中(金沢以降に持ち越し)なのだけど、わかっている四パターンを挙げるね。2幕以降で登場する屍人形態が最高に萌えるビジュアルなのだなぁ。

  • 生前(奥華の当主スタイル)
    • 青をベースに金で彩り、細かい装飾が施された豪華な衣装
  • 前屍人形態(冥界ルーキータイムアタックチャンス)
    • 生前の衣装が血にまみれてボロボロになり、胸元に大きな傷が走っている
  • 屍人第一形態(冥界編)
    • 衣装の形は大きくは変わらないが、粉を吹いたような白い素材に変わる
    • 顔も手足も白塗り
  • 屍人第二形態(現界編)
    • 第一形態に加え、目元や顔全体に黒いラインが強めに入る
  • 屍人第三形態(人外編)
    • 歌舞伎の悪役のような青い隈取が入る
    • 口の中を真っ赤に染めている

生前の青と金を用いた衣装が大変に豪華で美しい。あのおかげで、奥華の女たちはロビーで浴びるように青い奥華ソーダを飲む羽目になった。

全然関係ないけど、返却台に置かれた空の奥華ソーダのグラスで氷が溶けていって、一度なくなったのにまた溢れてきたみたいな様相を呈していたの、死んでも死なない地獄の軍団の暗喩かな? と思ってめちゃくちゃおもしろかった。写真は浴び続けた奥華ソーダです。

もうあれ以来、ブルーハワイ系の飲料に露骨に反応するようにはなってしまったよね。あと何杯奥華ソーダ飲めば冥界に行けるか考えたし、今から薬局で青色1号買って風呂で浴びるしかないなって思い詰めた。嘘。思い詰めていない。奥華ソーダ、青色1号ブルーハワイの単色使いだと思うんだけど、違ったかな?ちなみに青色1号を血管から送り込むと神経の炎症に効果があるという説があるんですけど、本当かどうかは知りません。

あとさとし秀衡が口の中を染めてるの、あれもねぇ。最初から染めてたっけ? 初日は染めてた印象ないのだけど、どうだったのかな〜。前楽のマチネではすこし染め色が薄めだった代わりに、唇のほうまでぐるっと太めに染まっていて、前楽のソワレでは唇に色を残さず上手にベロだけが染まってた感じがする。染め方も毎度工夫しているのだろうか。千穐楽はだーいぶ強く染めてたねぇ。ベロを見せるの、楽しくなっちゃったんだろうねぇ。わかる。

も〜〜〜さとし秀衡の白いビジュアルがよすぎて、もはや物販で白い粉を売ればいいのではと思った。おしろいでなくてもいいよ、小麦粉でも片栗粉でもいいよ。冥界の白い粉って言って売りなよ。白い粉、絶対に売れると思います。なんなら枡に詰めて売って? 白い粉一合、つまり枡一杯ぶんの白い粉。ミリオンセラーじゃないですか? もしくは地獄の軍団ちゃんのアクスタ欲しくないですか? なんか公式グッズ界隈でもアクスタ流行ってるんで、便乗しちゃえばいいんじゃないんですか? ほのぼの冥界仕様とギラギラ人外仕様の2つでお願いします。

わからないのが、後半衣装がちょっとずつ黒くなっていっているのでは…? という疑惑があって(確認しきれないまま大阪が終わってしまった)、もし色変化があるとしたら、それが6パターン目です。なんとなく、邪気が濃い人ほど黒のニュアンスが残っている気がしていて。秀衡、清衡、基衡の順で黒い。隈取の形の話でも触れたけど、基衡は筋肉バカな二代目ボンボンだから、あんまり邪気がないのかな…。

そして冥界から戻ってきたみんな、衣装に粒ラメがキラキラキラキラ散りばめてあるのに、秀衡は生地に粒ラメが入っていなくて、なめらかシャイニーな生地なんだよなぁ。袴はキラキラっていうよりギラギラだし。どうしてなの…。

遮那王牛若

ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!! ゆっくん遮那王の2幕メイク最高すぎて、あの顔でずっと生きていってほしいと思ったよね。だって、あのメイクからの烏帽子取ってからのあの展開、ずるい。あのビジュアルであの殺陣かよ。初日から比べると前楽の殺陣速い!! って思ったけど、千穐楽はさらにめちゃくちゃブーストかかった殺陣の速さだった。そのあたりは生田斗真の調整力がすごいんだと思うけど。

ところで烏帽子の下の髪型ってどうなってるのかな? っていう話でいろいろあったんだけど。初日は外す段取りの前にアクシデントで烏帽子が落ちてしまい、コーンロウみたいな編み込みが見える&一気に髪がバラバラになるのコンボで。いやホントゆっくん遮那王が帽子取るシーンは、初日のアクシデントが特別すぎて、心の宝物になっている… ありがとう神様…

なんの話だっけ、あ、そうそう、そのアクシデントがむしろ演出なんじゃないかってくらい自然なタイミングで運命のいたずらみたいに起こったし、そもそも鳥髑髏の天魔王と同じ編み込みかよ!!! という衝撃で、元の髪型どころの話じゃなかった。その後の観劇で細いポニテに黒いかんざしが刺さっていることがわかって、それはそれで衝撃だった。

この記事の上のほうで前述した牛若丸の子ども隈は、子どもながらに強く高貴な容貌を作るために眉と唇を隅でまっすぐに引く、っていうものらしいんだけど、遮那王はヤンキーだから眉毛がない。これはしかたない。あの子ヤンキーだからな…。うちの猫がケンカをはじめてメンチ切ってる様子を眺めていると、遮那王ちゃんを思い出す。ファー! フシャー! フニャラベロベロ!! って言いそうだもん遮那王。

それでも、遮那王の冥界行き後の屍人形態、めっちゃ白い。もしも黒のニュアンスが邪気を表すとするならば、だけど、邪気なんてないじゃんこの子。ただのわがままヤンキーじゃん。なんだよ、かわいいかよ。みんなにちゃんと愛してほしかったんだよね、はいはい、わかるわかる、かわいいね、ぺろぺろ。この味何かに似てる。なんだろう、おてんみたいな味がする。

あ、遮那王でグッズにするとしたら、暴れる遮那王のための拘束具ブレスレットが欲しいです。あ、枡と同じ形で作ればいいのでは? 素材も近いし? やったね。

奥華玄久郎国衡

ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!!

ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!!

ビ、ビ、ビジュアルがいい〜〜〜!!!

ビジュアルがいいんだよぉぉぉぉぉぉぉぉ〜〜〜!!!

これはしょうがなくないですか? 作中で「無駄に顔がいい」「顔だけはいい」という設定になっている玄久郎、顔がよくないわけなくないですか? 役の性格上、そこそこお召替えもあって、山を駆け回る元服前のマタギ姿から、源氏の総大将姿、そして冥界の屍人形態、そこからの最終形態進化…!! 最終進化した玄久郎、美の化身すぎて目を疑った。「きれい…」と声を出すわけにもいかんので、深い溜息を静かに吐くしかできなかったけど…。

特に上手から観る最終形態玄久郎、存在が芸術だった。上手大勝利案件。しかし下手からしか見えない表情もあるし、2階からしか見えない角度もある。偽経フェスティバルホールは2階からのビューがよすぎておったまげました…。ライティングで床に映る模様まで全部見えるし、その中に立つ斗真玄久郎の美しさったらなかった…。どセンターで観てみたいなとも思うけど、ここから先、手持ちのチケットにどセンはなかった。東京福岡に期待。

玄久郎の隈取りの色入れ、回によって微妙に角度が違うのが趣があってよかった。短い時間であの隈入れるの、シンプルなぶんだけめちゃめちゃ大変だと思う…。冥界からの出戻り組の中でいちばん白の白みが白くて、いろいろな素材感をミックスした衣装。透け感というか透けしかない粒ラメ羽織が普通に着こなせるの、斗真玄久郎しかいないでしょ… 強い… 新感線の太いビジュアルに説得力をもたらす強い素材、生田斗真の肉体…。

「あの顔で言われちゃしょうがない」と作中で言われ続ける玄久郎、客席からも「ホントだよ!」ってレスポンスしたいよね。絶対的コールアンドレスポンスが必要。いや、もちろん優れた演技あってのビジュアルですよ、役者さんの場合。でもね。演技がよかったことについては、これじゃない記事で書きますからね、この記事はビジュアルのことだけ書いてますからね、許してくださいね。

小道具のビジュアル

新感線の舞台は小道具を観るもの楽しみのひとつなんですよね〜。いい感じに手を抜きつつ、機能とメタファーが担保されている。偽義経には木乃伊もいっぱいいたし、観るものたくさんあって楽しい! ここでは黄金のことだけ書いておこうかな。

木乃伊から生成される黄金の塊。最初観たときは形が元宝に似てるかな? とも思ったけど、ぜんぜんそんなことはなくて、どうにも痩せたバナナにしか見えなかった。その後何度か観てわかったのは、最初に登場する黄金と京に運ぶ用の黄金、箱の中身が違うなってこと。

漆黒の岩屋でできたてほやほやの黄金は、下の層に骨の形まんまの大きい艶少なめのものが入ってる。大腿骨みたいな形の大きな骨ね。上の層には細いブーメラン型の小さくてギラギラしたのが積んであった。京に運ぶ用の箱になると、例のバナナみたいな形になって、大きさ・形・色艶が統一されてる。ちゃんと加工が入るんだな〜って感心した。

金沢、松本ではどんな小道具を見つけることができるかな〜。楽しみ!

ビジュアルは強いし人間の知性は脆い

ビジュアルをできるだけ目に焼き付けて帰りたくて、いつも目を皿のようにして見つめているんですけど、ちょっとしたことですぐ忘れちゃう。語彙も映像も全部ひっくるめて、記憶ごと飛んでしまう。あれは幻覚だったのかな? と不安に思うこともしばしば。

ビジュアルは強いし、力こそパワーだ。そんなもので殴られたら、人間の知性など地球の裏側まで飛んでいってしまうんだよなぁ。しょうがないじゃない。にんげんだもの。そうやって落っことしてしまった記憶のかけらを拾うため、人はブログを書く。そして次の公演に行く。しょうがないじゃない。にんげんだもの。

念のためですが、まだ私の知性は残っています。大丈夫です。心配いりませんよ。

偽義経、大阪千穐楽を終えて

あっという間にはじまって、あっという間に終わってしまった『偽義経冥界歌』大阪公演。なんだったんだ。幻? どんだけ凶悪な幻だったの? 初日の感想を読み返しても、やっぱりまだ実感がないレベルですよ。

偽義経、2019年春公演(大阪、金沢、松本)と、2020年冬公演(東京、博多)で間が空くのですが、前半戦はまだ金沢と松本が残っています。私は便宜上、前半戦を前偽経・後半戦を後偽経って勝手に呼んでいるので、この記事でもそう呼んでいます。

偽義経、東京に来るからみんな安心して! という気持ちと、前偽経と後偽経ではキャストが違うから、お願い両方観てという気持ちがある。まだ後偽経は観てないけども。観てないけどもわかるんだよ!!! なんなら演出も違うかもしれないって思ってるくらいだよ!!!!

もう、迷ってる人には絶対に観てほしいという気持ちがあるので、この記事ではネタバレなしで良さを伝える努力をしてみようと思っています。ネタバレありの感想は以下の記事でやってるので、ネタバレOKな人は『何もかもを合わせ飲んで説き伏せる、偽義経の力技ビジュアル』という記事の方もどうぞ。

この煎餅に誓って、偽義経のよさ、伝えたい。届け、どこかへ。どこかってどこだ。なるべく勝率の高いところに届いてほしいけれども。

いろんな好みをまるっと抱いちゃう強さ

私は観劇が大好きだし、演劇ファンなんですけど、新感線ファンかと言われるとそういう括りではない気がする。新感線ファンではないという性癖自認を持つ人間がこれだけべろべろに酔っ払うって、やっぱりそれだけですごいと思うんですよ偽義経。

それどころか、偽義経に似ているタイプの新感線演目は実は好みの真ん中じゃなかったりするんですよね、私の場合。新感線の過去作であるVBBや蒼乱を愛している人たちが偽義経を推してるのは、完全に信用していい正統派の推し方だと思うんですよね。その逆を行く私が、べろべろに酔っ払っているのです。すごいね!

みんないろんな好みやいろんな性癖やいろんな地雷があるのに、原作者の中島先生や演出のいのうえさんは、それをみんなまるっと抱いてオタクの頂点で輝いている。新感線って強い。はちゃめちゃに強い。

適度な隙と気になる矛盾が癖になるファンタジー

偽義経のいいところは、最初っからファンタジー全開で、史実の入る余地を排除してるところだなぁと思っています。そのおかげで、不要な雑念を入れずに観ることができる。こまけぇこたぁいいんだよ! どころかざっくりファンタジーです! って名刺を差し出してくるところが安心なんですよ、偽義経。そこが髑髏城とは違う。

同じ新感線の演目である『髑髏城の七人』の絶妙なところは、誰も知らない歴史の1ページだった可能性がゼロではない… と思わせる要素が残ってるところ。それが良さだったなぁってしみじみ思う。それは別の新感線演目『メタルマクベス』もそうなんだよね。あんな未来絶対ないだろっていうツッコミは甘んじて受けるけど(笑)。

そう考えると、ステアラは回ることでパラレル世界線に連れて行ってくれる装置だったんだなぁって思うの。ファンタジーを見せてくれる装置ではなくて、パラレルタイムマシーンだったんだよ、ステアラことシアターアラウンドは。だから私たちは天正18年にいつでも行けたし、2218年にいつでも行けた。なんとなく、どうしてあの2作がステアラ上演作品に選ばれたのか、わかる気がする。たとえそれが本当の理由じゃなかったとしても、すごく腑に落ちる。そういうことなんだよ。

だから、偽義経は久しぶりの全開正統派ファンタジーなんじゃないかなぁって。それは新感線の演目としては、大変に歓迎すべきことなんじゃないかなぁって。

それでいて、実はどのようにも解釈できるような謎めいた隙が散りばめられている恐ろしいストーリーだったりするんですよ。主人公の玄久郎が明るいおバカだから目隠しされちゃってるけど、意味がわかると怖い話レベルの鬱ポイントがあちこちに埋め込まれている… と私は思ってやまない。

これは個人の解釈次第なんですよ。鬱ポイントなんてない! 少年ジャンプ! と思いながら観る人もいれば、私みたいに「か、かじゅきは、偽義経に縦読みを仕込んでいるタイプのやばい脚本家だ…(がくがく)」と取る人もいる。一見勧善懲悪のストーリー書きました、っていう体裁に縦読みを仕込んでるかじゅきのギミック、私は信じてる。

その適度な隙が、オタクをまるっと抱いちゃう肩幅の広さに繋がるんでしょうね。とってもよい隙。

行けるものなら行きましょう、前偽経が終わる前に

いやホント、そういうことです。そういうことなんです。よろしくお願いします。

きっとあなたも好きになる。ならなかったらしかたない。とにかく観れるうちに観ておきましょう。偽義経の大阪千穐楽を終えて、現場から言いたいことは以上です。

『偽義経冥界歌』フェスティバルホール、初日

こんなに早くこの日が来ると思わなかったけれど、気が付いたら劇団☆新感線の39興行・春公演『偽義経冥界歌』の初日が来ていました。月日が経つのはあっという間ですね。ついこないだまでステアラで回ってたよね?

結論から言うと、とにかくみんな観てってことなんですけどね。めちゃくちゃいろんな人に観てほしいと思ってるんですよ。もはやそれ以上の言葉が出てこなくて…。

これから来年まで巡業する39興行、まだ行くかどうか迷っている人がいたら是非オススメしたいな〜。そしてまだこの公演の存在を知らない人にもオススメしたいな〜。

オススメになるような話は今はまだ全然書けそうにないけれど、とにかく観劇記録だけは寝る前に残しておきたい。語れる全然言葉が出てこない中、なんとかここまでひねり書いてます。

『偽義経冥界歌』って、ざっくり、こんなお芝居

劇団☆新感線は去年一昨年とずっとIHIステージアラウンド東京でロングラン公演を行っていたため、本公演的な感じの興行は久しぶり。そのため、新感線ファンにとってはステアラ奉公の年季明け… みたいな気分もあるわけです。

座付き作家の中島かずき先生の完全新作というのも話題のひとつ。

2016年の『乱鶯』以来のいのうえ歌舞伎の新作で、劇団の座付き作家・中島かずきによるゼロベースからの完全新作は2014年の『蒼の乱』以来ということになります。

(中略)

また、いのうえひでのりにとっては、この2年の経験と出会いの数々からいただいた刺激を財産とし、改めていのうえ歌舞伎に向き合うことで時代劇でできることの新たな可能性を探っていきます。

偽義経冥界歌|にせよしつねめいかいにうたう公式

お話のモチーフは“奥州三代”と“義経黄金伝説”。義経は比較的有名で人気のある歴史上の登場人物ですから、そのあたりがなんとなく頭に入っていれば、細かいことや難しいことは知らなくても普通に楽しめる内容です。

義経が実際に奥州に匿われていたという史実をスタートラインに、奥州三代の盛衰の行方も絡めつつ、中島脚本ならではのファンタジーも散りばめつつ、歴史ミステリー好きの心をもくすぐるアッと驚く展開が繰り広げられます。

偽義経冥界歌|にせよしつねめいかいにうたう公式

ホント、いいお話だった…

後味の悪いお話ややりきれない暗いお話が好きな私が言うのもなんなんですけど、とっても気持ちのよい物語なんですよ、偽義経。

生田斗真くん演じる主人公が本当に素直でおバカでかわいくて、観客である我々は主人公が成長する姿を思いもよらない角度から見ることになる。

人間の業を描かせたら、そのドロドロみには定評がある中島かずき先生だけど、中島先生の集大成と言いたくなるような、雑味のないクリアなお話なんですよ。

でもさ! これ以上のことを書いたらさ! ネタバレしてしまうから! でもじゃあ何を書けばいいの! わからない!

もうホント、このつぶやきに尽きるんですよ…。無力だ…。誰かにオススメするための言葉もひねり出せないなんて…。

キャラデザも最高… 役者さんも最高…

もう、物語について語るのはあきらめて、ビジュアルや決め台詞、立ち姿など全部含めて、いのうえ歌舞伎としての魅力がたくさん詰まってるよっていう話をしたい。

偽義経はですね、キャラクターデザインとビジュアルのエモさがやばい。新感線のキャラってとっても漫画的なのに、そのわりに全然2次元的じゃないというか、量的にも質的にも血の通った存在感がある。当て書きをしているから、そう感じるのかな。

どのキャラクターにもそのキャラなりの見せ場があって、役者さんにそのキャラがしっかり乗っかってる。だから、キャラがいいから好きなのか、役者さんがいいから好きなのか、それが曖昧になってくるんですよね。

ぬぬぬぬぬぬぬ、役者さんひとりひとりについて書き出したいところだけど、ボリュームが増えて書いてるうちに朝になってしまいそうなので、それは別途書くことにします。今日は観劇した記録だけ… 記録だけ…

あっでもこれだけは書かせて。現時点での私の偽義経MVPは海尊という法師役の山内圭哉さんです。前半は全体のストーリーをわかりやすく提示してくれるキーパーソンになる役で、その演じかたや居ずまいがニュートラルでいい。法師としてのビジュアルも男前すぎて惚れる。

そしてキャラとして完璧に好きすぎて立ち直れないくらいなのが、橋本さとしさん演じる奥華秀衡。何が強いってビジュアルが強い…。特に2幕以降が最高すぎて… 2幕以降で彼が率いる某軍団も最高で…。はぁ… 好き…。

なんにしても、ちゃんと言葉にできるようになってから出直してきます。もしくはネタバレ上等の記事として書きます。

こんなにエモい初日にお知らせ出すのずるい

それにしてもですね、今日は偽義経の初日だっていうのにですね、次の夏公演『けむりの軍団』のお知らせをぶつけてきたんですよね、新感線ちゃん。

これには情緒が追い付かない。偽義経への思いも持て余しているのに、どうしろっていうの? そのまま会場で最速先行チケット売ってくれればよかったんじゃない?

しかも今日って『髑髏城の七人 Season花』のゲキシネ初日なんですよ? 信じられます? 情報も情緒も過多すぎて泡吹くしかない。実際吹いてる、若干。

はーーーーーーーーーー。現場からは以上です。感想っていうか、結局何も言えてませんよね。はい、わかってます。落ち着いたらまた書くもんね!(たぶん)